※イメージ写真
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 女性ロッカーの先駆けだったシーナ&ロケッツのボーカル、シーナさん(享年61)の訃報は、音楽業界に衝撃を与えた。同バンドのギタリストで夫の鮎川誠さん(66)が、シーナ&ロケッツ結成について語った。

──がんを押してステージに立ち続け、ロッカーとしての最期を全うしたシーナさん。2月18日、“ロック葬”と名付けた通夜で鮎川さんは、「妻とは44年間ずっと一緒にいました。毎日、音楽の話をして、曲を作って、ツアーをして、幸せでした。シーナ、ありがとう。Forever,Sheena!」と述べ、永遠の愛を誓った。ロック界を代表するおしどり夫婦だった二人は、どのように愛を育んできたのか。出会いは1971年の夏に遡(さかのぼ)る。

 その頃、僕は九州大学に通いながら、ブルースに影響を受けたサンハウスというロックバンドをやっていました。お盆明けのある日、福岡市の盛り場のダンスホールで演奏していたら、ドアがギーッと開いて、青いパンタロンスーツを着た女性が入って来たんです。それがシーナやった。

 演奏が終わると、彼女はバンドのメンバーを通して、「話がしたい」と伝言をくれたんです。大人っぽく見えましたが、彼女はまだ高校生でした。最初は、「なんや、この小娘は」と思いましたが、話をしてみたら、相当なロックフリークだった。「東京でライブを見て、琵琶湖のロックフェスティバルに行って、京都に寄って、実家の北九州市に帰る途中だった。いっぱい見た中で、あんたたちが最高やった」と言いよったんです。

 その後、僕の下宿でローリング・ストーンズやレッド・ツェッペリン、ボブ・ディランなど音楽の話を一晩中しゃべって、次の日には二人でアパートを借りに行きました。

──鮎川さんとシーナさんは福岡市で仲間たちに囲まれながらロックンロールライフを過ごした後、78年に上京。同年にシーナ&ロケッツを結成する。きっかけを作ってくれたのは、シーナさんの父親だった。

 78年、サンハウスのメンバーが1人ずつ脱退していき、解散することになった。すでにシーナとの間には双子の娘が生まれて、結婚をしていました。堅気の仕事を始めるか、福岡市でミュージシャンを続けるか、悩んでいた時期です。そうしたら、シーナのお父さんが、「一生の悔いが残らんように東京で勝負してこい」と助言をくれました。

 僕はシーナと娘を北九州市に残して上京しました。でも、すぐにシーナが僕を追いかけてきた。シーナのお父さんが、「そげんマコちゃんの近くがええなら、孫は面倒みるから、お前も東京に行ってこい」と言ってくれたそうなんです。

 しばらくは作曲したテープを持って売り込みに行き、スタジオでレコーディングの仕事を続ける日々を過ごしました。そんな中、ある日、シーナがぽつりと言ったんです。「私も歌いたい。自分の歌ったレコードを聴いてみたい」って……。

 その言葉を聞いて、僕に迷いはなかった。そこからすぐにシーナ&ロケッツを始めることになりました。

(構成 本誌・福田雄一)

週刊朝日 2015年3月13日号より抜粋