※イメージ写真
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 内藤家18代目当主の内藤頼誼(ないとう・よりよし)氏。氏によると、一族が家康から土地をもらい受けた“伝説”があるという。

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 内藤一族は、関ケ原の戦いよりもずっと前から徳川家に仕えていました。大名として幕末まで残った内藤家は6家あります。うちの領地は、長野県伊那(いな)市にあった高遠(たかとお)藩でした。初代の忠政から数えて私で18代目になります。

 私は東京都新宿区の内藤町に住んでいます。内藤町には「丁目」がありません。しかも、人が住んでいる区画の番地は1番地の一つだけ。なぜかというと、もとは一つの土地だったからです。もっと言えば、すぐとなりの新宿御苑(ぎょえん)も含めて、全部うちの敷地でした。このことを説明するためには、歴史を400年以上さかのぼらなければいけません。

 1590年、小田原で北条氏を降伏させて天下統一を果たした秀吉は、すぐに家康を関東へ追いやります。このとき家康とともに、うちの2代・清成(きよなり)も江戸に入りました。

 入府すると、家康は鷹狩(たかが)りをするために、今の新宿あたりへ出かけました。鷹狩りというのは一種の軍事訓練です。不慣れな土地の視察や地形を調べるためでもあったのでしょう。

 言い伝えでは、大木の下で休憩していた家康が、「この一帯を馬で一息に駆けてみろ。駆けまわってきた土地はぜんぶお前にやろう」と清成に言ったそうです。清成は愛馬にまたがり、四谷、千駄ケ谷、代々木、大久保とまわって、家康のもとに駆け戻ってきました。愛馬は力尽きて死んでしまいましたが、清成は駆け抜けた広大な土地をもらいました。この話は「駿馬(しゅんめ)伝説」と呼ばれています。新宿区内藤町の多武峯(とうのみね)内藤神社には、清成の愛馬を供養した駿馬塚の碑があります。

 家康から拝領した新宿一帯の土地は20万坪(東京ドーム14個分)ほどありました。清成の武勇伝ではありますが、馬の話はあくまでも伝説だと思います。甲州街道と青梅街道につながる江戸の要所を、最も信頼できる家臣に固めさせた、というのが事実でしょう。  

 いずれにしても、土地をもらった1590年以来、ずっと同じ場所に家を持っているというのは、東京ではうちくらいじゃないかな。

 新宿という地名には由来があります。東海道は品川、中山道は板橋、というように、いずれの街道も近場に第一の宿場がありました。ところが、甲州街道の最初の宿場は4里(約16キロ)も離れた高井戸。これはあまりにも遠い。幕府は内藤家に20万坪あった敷地の3分の1を返上させ、そこに新しい宿場がつくられました。「内藤新宿」の誕生です。

 内藤新宿には「飯盛(めしも)り女」が150人ほどいたそうです。飯盛り女というのは、文字通りとれば給仕をする女性ですが、実は遊女のこと。江戸で遊女が公認されていたのは吉原だけでした。だから「飯盛り女」という口実で遊女を置いたのです。客層は旅人というよりは、江戸市中から1泊くらいで遊びにくる人たちだったんじゃないかな。これが今日の盛り場・新宿のおおもとです。

 内藤新宿は、今でいうと新宿1丁目から3丁目まで。若い人たちは知らないだろうけど、戦後もその一角に「赤線(あかせん)地帯」がありました。売春防止法ができるまで、社会の裏側ともいえる歴史を脈々とつないできたのです。

(構成 本誌・横山健)

週刊朝日 2015年2月27日号