奇抜な風貌で、愛と平和を奏でた伝説のロックンローラー忌野清志郎が亡くなってもうすぐ6年。生前、親交のあったシンガー・ソングライターの矢野顕子さんは、がんの再発直前、一緒に仕事をする約束をしていたという。

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 最初に彼に会ったのは1982年、「ヘンタイよいこバンド」のメンバーとしてです。彼は派手なメイクで物議を醸すような言動をしていたけど、そのイメージとはうらはらに静かで少年のような人でした。私にとって彼は「小学校の同級生」みたいな存在。私は海外に住んでいるので、そんなにしょっちゅう会っていたわけではないんです。でも会えば昔のまま、すぐにパッと近い距離になれる。

 いちばん多かったのはファクスでのやりとりです。朝起きると力作の絵とかが送られてきている。それも2メートルくらい用紙が出ていて(笑)。「相手のマシンの紙を全部使い果たす方法を考えた!」とか言ってやり合いました。

 彼に重要なことを相談すると、的確なアドバイスをくれるんです。彼はRCサクセション時代にレコード会社とのトラブルなどがかなりあったので著作権とかにも詳しくて、ビジネス上の問題でよく助けてもらいました。彼からの相談は……「息子が口を利いてくれない」とか(笑)。いちおう私のほうが育児では先輩でしたから。

 彼は簡単な言葉で大きなことを伝えてきた人ですが、病気をしてからはそれがよりいっそう深い意味を持つようになったと感じて、彼の音楽を楽しみにしていました。彼が伝えたかったことは本当にまっとうで健全なことですよね。「人間は愛し合わなければならない、愛し合うことが基本である」。それを彼はいろいろな経験を通して知っていたんだと思います。がんが再発する直前に一緒に曲を書く約束をしていたんです。でもその日に彼から「風邪をひいて、ちょっと無理そうだ」って連絡があった。「じゃあ、風邪が治ってからね」と言って、結局できなかったのが残念です。

 2013年にカバーアルバム「矢野顕子、忌野清志郎を歌う」を出したのは、彼が本当に素晴らしい作曲家であったことを知ってもらいたかったからです。みなさん“忌野清志郎”っていうキャラクターはパッと思い浮かぶかもしれないけど「どんな曲を歌っていたっけ?」となってほしくなかった。彼の曲にはそんなに有名ではないけれど素晴らしい曲がたくさんあるんです。それを埋もれさせたくない、という一心で作りました。彼の歌を歌うときセンチメンタルな気持ちにはならないですね。彼の曲の世界を私なりにどういうふうに伝えるか、のほうが大きい。それが私の仕事だと思っています。

週刊朝日 2015年2月20日号