著名人に昭和の時代を振り返ってもらう、「昭和の遺言」。今回は、1923年に京都府生まれた裏千家15代・前家元の千玄室(せん・げんしつ)氏に聞く。

 氏は同志社大学在学中に学徒出陣。今でも、戦友の慰霊のための献茶を欠かさない。お茶を通じてアメリカを「認めざるをえなくなった」という千氏は、一盌のお茶に平和の願いを込める。

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 昭和26(51)年の1月、縁があって私は、茶道の普及のためにアメリカに渡りました。まだパスポートはなく、GHQ発行の「被占領国民につき、保護を加えられたし」という渡航を許可する一枚の紙切れと、健康を証明するレントゲン写真、検便結果を持たされました。何ともいえぬ情けない旅立ちでした。

 アメリカではハワイ大学に籍を置いて本土も回りました。渡米して半年後にニューヨークの神学校で禅を講義していた鈴木大拙先生に呼ばれたのですが、その席に24年にコロンビア大学に招聘され、ノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹夫妻がいらしたのです。湯川夫人は私の母と親しかったものですから、コロンビア大学でお茶を、ということになり、湯川博士の説明でお茶会を催しました。

 26年の9月にサンフランシスコで講和条約が結ばれましたが、そのときには全権委員の星島二郎さんに招かれて、日本美術展の中で茶道を紹介しました。

 当時の私には、つい数年前まで敵国として戦っていたアメリカに対して、どこかしら身構えてしまうところがあったのですが、このようにアメリカで茶道を紹介していくうちに、お茶は物言わなくとも交流をもたらし友好を深めるものだと思うようになりました。鉄道王ヴァンダービルトのニュージャージーの茶室、ニューヨークのロックフェラー2世のお香の香りが漂う居間。みなさん、岡倉天心の『The Book of Tea(茶の本)』を読んでいらして、日本の文化を敬愛しているのですね。ロックフェラー2世の居間には小屏風が並べられ、唐津焼の小さな花入にアイリッシュリリーがスッと挿してあり、奥様がお茶を点ててくれました。

 そうした体験を重ねるうちに、かつての敵国の文化を理解し、受容するアメリカという国のすばらしさを、私も認めざるをえなくなったのです。そしてたどり着いたのが「一盌からピースフルネスを」というフレーズです。利休の言う「和敬清寂」を私なりに説明するための言葉です。私はこの言葉をもって世界に茶道を、ひいては平和を広めようと活動を始めたのです。

週刊朝日 2015年2月13日号より抜粋