世の中が少し落ち着いてきて、団子も助六(寿司)もたくさん出回ってきたころ、あたしゃ見切りをつけてキャバレーの女給募集に応じたの。浅草の田原町にあった富士荘っていう大きなキャバレー。1階はダンスフロアがあり、2階はお座敷。下でドラム叩いてジルバを踊り、上では三味をトテチンシャン。話芸は玄人だし、三味線も踊りもお手のもの。「桂子」っていうのは、このときにつけた源氏名。大きな会社の社長さんたちにも可愛がられ、「浅草のお桂ちゃん」ってけっこうな人気だったのよ。

――桂子師匠がキャバレー勤めを始めたのは昭和23(48)年。そのころになると演芸も息を吹き返し、売れっ子女給も徐々に高座との二足のわらじに。そして24(49)年に内海好江と出会い、翌25年、内海桂子・好江のコンビを正式に結成した。

 なにしろ年の差が14歳。芸歴も物の見方も価値観も違う。平成9(97)年に好江ちゃんが亡くなるまでコンビは続きましたが、紆余曲折、何度かコンビ解消の危機があったのよ。

 昭和31(56)年に始まったNHK漫才コンクールは、あたしはぜひとも取りたい賞だった。1回、2回と落選して3回目(57年後期)に落ちたとき、好江ちゃんを「お前が悪いから」と怒鳴りつけちゃった。そしたら好江ちゃん、睡眠薬で自殺しようとしたの。だけど、あんまり量を飲みすぎてすぐに戻しちゃったみたいで生き返った──。それで、第4回(58年前期)についに優勝。昭和でもっとも嬉しかったのは、この優勝の瞬間かもしれないわね。

週刊朝日 2015年1月30日号より抜粋