俳優の織本順吉(おりもと・じゅんきち)さん(87)は戦後、労働運動や共産党の活動が活発化していく時代の渦に巻き込まれながらも、俳優として、普通に生きる人々を演じ続けてきた。織本さんは昭和を振り返り、こう語った。

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──戦後、織本さんは工業学校の電気科で学んだ技術をいかし、東芝に就職した。当時の東芝では労働組合運動が活発で、昭和21(46)年から3次にわたって労働争議を起こした東宝と並び「二東の赤」と称されるほどだった。一方で労働組合は文化活動も主導し、織本さんも職場演劇に参加し、演劇活動を行うようになった。

 東芝では工員扱いで、ドロドロの油まみれになって働いていました。勤労動員時代にお世話になった課長さんがその姿を見て、自分の課に引っ張ってくれたんです。それも机も椅子もある好待遇で──。

 そうこうしているうちに労働組合を手伝えという話になって、僕には労働者意識なんてなかったけど、ポスター書きなどやっていました。組合の仕事にも慣れ、労働者の考え方も理解できるようになったころに迎えたのが、例の2.1ゼネスト(47年)です。日本の交通機関を全部止めるぞと、周囲の昂揚感は大変なもので、僕も本当に革命が起きるのではと思いました。結局、ゼネスト前日にGHQの指令で中止になるんですが、この時に僕は「アメリカの力ってすごいな。世の中はそんなに簡単に変わらないぞ」と思い知らされましたね。

 そのころに“党”のフラクション会議の委員長をやっていた人に「君ね、この党にだけは入るな」と言われたんです。組合には入党申込書があって、推薦人が2人いれば入党できた。でも、その人は絶対に入るな、と……。

 やがて東芝は生産計画を発表し、勤労整備という名目で首切りをやったんです。僕は給料をもらいながら組合活動をしてたんで、けしからんと解雇されました。下山事件、三鷹事件、松川事件のあった昭和24(49)年でした。解雇されたとき、僕らは職場中にベートーベンの「運命」を大音量で流しましてね。なにしろスピーカーだけはたくさんあったので(笑)。

 僕は組合の文化部で職場演劇をやったり、川崎の京浜演劇学校で俳優の勉強もしていました。職場演劇の講習会には、講師として村山知義、宇野重吉、羽仁五郎、平野謙さんなど何十人という先生が来てくれて、ちょっとした短期大学の講義のようでした。演劇学校のコンクールでは賞を取ったこともあって、東芝をやめたあと、誘いを受けて「新協劇団」に入団したんです。

 劇団に入ったら、僕の本名の角田正昭がプロ野球選手みたいだと言われて。出身の折本町から姓を織本に、志賀直哉の小説『大津順吉』から名前をいただいて芸名にしたんです。

週刊朝日  2015年1月23日号より抜粋