ファッションデザイナー 森英恵もり・はなえ/1926年、島根県生まれ。東京女子大学卒業後、ドレスメーカー女学院で洋裁を学ぶ。65年、NYで初の海外コレクションを発表。77年、パリにオートクチュールのメゾンをオープン。オートクチュール組合に属す唯一の東洋人として国際的に活動、日本人ファッションデザイナーのパイオニアとして高く評価された(撮影/写真部・工藤隆太郎)
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ファッションデザイナー 森英恵
もり・はなえ/1926年、島根県生まれ。東京女子大学卒業後、ドレスメーカー女学院で洋裁を学ぶ。65年、NYで初の海外コレクションを発表。77年、パリにオートクチュールのメゾンをオープン。オートクチュール組合に属す唯一の東洋人として国際的に活動、日本人ファッションデザイナーのパイオニアとして高く評価された(撮影/写真部・工藤隆太郎)

 1965年、NYで初の海外コレクションを発表。77年、パリにオートクチュールのメゾンをオープン。オートクチュール組合に属す唯一の東洋人として国際的に活動、日本人ファッションデザイナーのパイオニアとして高く評価された森英恵さん。昭和をかけぬけた森さんは、今の日本に危機感を持つ。

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――ベトナム戦争が激化する60年代後半から70年代になると、アメリカのファッションはエレガントからカジュアルへと大きく移り変わっていき、森さんは「仕事がつまらなくなった」。

 昭和50(75)年にモナコのグレース公妃に招かれてショーを開いたんです。公妃が「海も空も澄んでいてきれいよ」とおっしゃるので日本の古典的な浴衣を素材にしてオープニング用のリゾートドレスを作ったら、受けましてね。周囲のすすめもあって帰途にパリでもショーを行ったら、ヘラルド・トリビューンの有名なファッション記者が「ニューヨークでやってたってしょうがないでしょ。パリに来なさいよ」って。私もパリでやるならオートクチュールと思っていましたし、昭和52(77)年にパリにメゾン(店)を開いたんです。結局、ワンシーズンを経てオートクチュール組合への加盟が許されたんですが、もう大変でした。コレクションを開くと、オーダーが入った作品をすぐに作って送り出さなければならない。売らなければ次のコレクションができないので、まさにファッションビジネス最前線で戦っているという感じでした。

――鮮やかな色彩と蝶をモチーフとした「ハナヱ・モリ」ブランドは、パリのみならず世界のファッション界を席巻した。森さんは平成8(96)年に文化勲章受章、14(2002)年にはフランスのレジオン・ドヌール勲章オフィシエ受章。16(04)年にパリで最後のオートクチュール・コレクションを開いてデザインの第一線から退いた。現在は舞台衣装などの仕事を手がけながら、若い才能の発掘、指導に努めている。

 文化勲章の受章のお知らせを受けた時、主人は入院しておりました。「文化勲章、くださるって」と言ったら、彼、とっても嬉しそうにニコリとしてね。伝達式に主人も出席できたらいいなと思ったのですが、間に合いませんでした。

 とりわけ戦後の昭和って、日本が「本来の日本」を取り戻そうとした、そういう時代だったと思います。政治的、経済的、文化的にも、国際社会に向かって「ニッポン」を取り戻す姿勢を見せてきた、そんな時代だったのではないでしょうか。

 いま、六本木で仕事をしておりますが、かつては、ディスコを始め、新しい文化が生まれる場所でした。けれどもいまは、街行く人が、若いのか年配なのか、男なのか女なのか、外国人なのか日本人なのか、わからない。昭和に日本を取り戻そうとした“人間力”が、いま薄れているような気がします。

週刊朝日 2015年1月16日号より抜粋