ファッションデザイナー 森英恵もり・はなえ/1926年、島根県生まれ。東京女子大学卒業後、ドレスメーカー女学院で洋裁を学ぶ。65年、NYで初の海外コレクションを発表。77年、パリにオートクチュールのメゾンをオープン。オートクチュール組合に属す唯一の東洋人として国際的に活動、日本人ファッションデザイナーのパイオニアとして高く評価された(撮影/写真部・工藤隆太郎)
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ファッションデザイナー 森英恵
もり・はなえ/1926年、島根県生まれ。東京女子大学卒業後、ドレスメーカー女学院で洋裁を学ぶ。65年、NYで初の海外コレクションを発表。77年、パリにオートクチュールのメゾンをオープン。オートクチュール組合に属す唯一の東洋人として国際的に活動、日本人ファッションデザイナーのパイオニアとして高く評価された(撮影/写真部・工藤隆太郎)

 1965年にNYで初の海外コレクションを発表などファッションデザイナーとして国際的に活躍する森英恵さんは、映画監督から「女」を教わったとこういう。

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――大学に通っていた森さんはある日、道でばったりと、戦時中の動員先の上官で主計将校だった森賢氏と出会い、交際を始めた。「男性の少ない時代だったから」と大学卒業後、すぐに結婚。が、仕事で多忙な夫の帰宅を待つだけの日々は「退屈で」、ドレスメーカー女学院で洋裁を学び始めた。もともとモノ作りが好きで「主人のシャツや、やがて生まれるであろう子どもの服ぐらいは作ってあげたい」との思いからだった。

 ドレスメーカーで勉強するうちに、洋服を作ることがだんだん面白く、楽しくなって。家族に作ってあげるというレベルでなく、もっときちんとした商品を作りたいと思うようになったんです。

 主人の理解もあって、新宿にお店を出したのが昭和26(51)年。東口の横丁で武蔵野館の前の靴屋さんの2階でした。当時のあの界隈には、演劇人や映画人といったアーティスト、文学者などが集まるこざっぱりとした喫茶店やバーがあって、夕方ともなれば独特の雰囲気が流れる街でした。新宿通りには本の紀伊國屋があって学生さんも多く、文化的な香りが漂っていたんですね。

 そんな街でお店をアピールするにはと一生懸命に考えて、武蔵野館に面している部分を全面ガラス張りにしたの。アメリカ製のマネキン人形を2体入れて、それに自分の作品を着せて――近くの文化人が集まる喫茶店でファッションショーを開いたこともあって、ずいぶんと評判になり、マネキンに着せた服はすぐに売れました。ですからマネキンには紙や新聞紙を巻いているほうが多かったんですが、それはそれで評判を呼んで。お店にはミシミシと音を立てる木の階段を踏んで上がるのですが、女しか上がれない階段でした。

 その女しか上がれない階段をある時、ミシミシといわせて上ってきた男性がいました。映画監督の吉村公三郎さんでした。吉村監督は「四十八歳の抵抗」(56年)に出演する雪村いづみさんを連れてきたんですね。私は昭和29(54)年から映画衣装のデザインを始めていましたが、最初は衣装デザイナーの名前はクレジットされませんでした。初めてクレジットタイトルに名前を出してくださったのが川島雄三監督で「風船」(56年)という作品でした。「森さんがハードに働いてくれてるんだから、名前を入れよう」と川島さんが提案したと、後から聞きました。日本映画の全盛期でしたから、日活、大映、松竹と各社の作品を次から次へと手がけました。石原裕次郎、北原三枝、岡田茉莉子、桑野みゆきさんたち、とっても多くの俳優さんたちの衣装を作りましたね。

 映画作品を通じて監督さんたちから「女」を教わりました。男性の目に映る“女らしさ”って、女性側からはわかりにくいものなんです。

週刊朝日 2015年1月16日号より抜粋