2012年6月の寛仁さま逝去から100日の節目を弔う「墓所百日祭の儀」で喪主をつとめる彬子さまと瑶子さま(代表撮影) (c)朝日新聞社 @@写禁
2012年6月の寛仁さま逝去から100日の節目を弔う「墓所百日祭の儀」で喪主をつとめる彬子さまと瑶子さま(代表撮影) (c)朝日新聞社 @@写禁

 故ヒゲの殿下の妃である信子さまは9年ほど前から長期療養生活中だ。ところが最近、宮中晩餐会や園遊会で姿をお見かけするようになった。突然のご公務復帰に、関係者は戸惑いを隠せない。12月20日に33歳の誕生日を迎える長女の彬子さま、次女の瑶子さまの胸中は――。

 寛仁さま逝去後も「別邸暮らし」を続ける信子さまの日常に変化が現れたのは、寛仁さまが亡くなって1年数カ月が過ぎたころだった。13年11月、福島県伊達市を公的に訪れ、小学校でクラシックコンサートを鑑賞した。信子さまは06年1月の新年祝賀行事に顔を出したのを最後に公務に姿を見せたことがなかったため、実に7年10カ月ぶりの復帰となった。

 13年10月、伊達市の食材を生かした料理本『思い出の先にはいつも家庭料理』(マガジンハウス刊)を出版。紹介しているのは麻生家の思い出の料理だ。

 そして今年10月に入ってから、信子さまは精力的に公務をこなすようになっている。12日に松山市で開かれた「日本青年会議所第63回全国大会松山大会」を皮切りに、29日のオランダ国王夫妻を迎えた宮中晩餐会、11月6日の園遊会……。宮中晩餐会は11年ぶり、園遊会は10年半ぶりだ。園遊会翌日には再び伊達市を訪れ、原発事故で避難生活を続ける飯舘村民らと交流した。

 園遊会でも出席者に積極的に話しかけていた信子さまだが、その“慣れないお仕事ぶり”に周りが肝を冷やすシーンがあった。両陛下や皇族方が池の周りを回るなか、信子さまだけが出席者との会話に夢中になって立ち止まってしまい、後に続く皇族方が前に進めなかったという。

 それだけではない。

 寛仁さまの逝去後も寛仁親王家の当主が決まらず、信子さま、彬子さま、瑶子さまは寛仁さまの両親の三笠宮家に合流している。公務復帰するのなら当主である三笠宮さまと百合子さまご夫妻にあいさつするのが礼儀だが、それを避け続けているのだ。

「電話にも出ず、職員が百合子さまの手紙をお渡ししようとしても拒否したそうです」(宮内庁関係者)

 信子さまは、三笠宮ご夫妻と面会できない理由について、慶応病院の担当医による書面をご夫妻の元に送ってきたという。その内容は以下のようなものだ。

<寛仁親王殿下に生前、DVを受けた。その傷が癒えず、三笠宮ご夫妻にお会いすると当時を思い出してしまうので会えない>

 だが宮家に仕えた職員らがそうした言動を見聞きしたことはなく、DVがあった事実も確認されていない。

 さらに娘の彬子さまや瑶子さまとの溝も相変わらず埋まらないようで、母としての信頼を取り戻すまでには至らないようだ。

「娘たちが私を宮邸から遠ざけている」
「話し合いにも応じようとしない」

 そんな話を信子さまから聞いたという人は少なくないが、複数の皇室関係者によると、彬子さまや瑶子さまから話し合いの場を何度か設定しようとしたが、信子さま側が拒んだという。

 信子さまが暮らす旧長官公邸は国有財産だ。皇族妃が生活するのは異例の措置といえる。本誌は信子さまに取材を試みたが、果たせなかった。母と娘たちが歩み寄り、宮邸で一緒に暮らす日はいつになるのか。信子さまは「これからもどんどん公務をこなしていきたい」と意欲を燃やしているというが、宮内庁幹部は頭を悩ませている。

週刊朝日  2014年12月19日号より抜粋