元西武ライオンズのエースで同チームの監督も務めた東尾修氏は、年俸が大台を突破した時のことをこう振り返る。

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 プロ野球の契約更改交渉が各球団で行われている。中日の大島洋平のように、球団とのズレが大きくて、調停も辞さずの強硬姿勢をみせる選手もいる。ただ、今は各球団の主力選手は下交渉することが多いから、一発サインが多くなっている。その意味では、大島のケースは珍しいことではあるし、お互いに意見をぶつけ合って、来季、納得してプレーするような決着をみてほしいよね。

 昔と違って、複数年契約や、細かい出来高を設けるなど、付帯条件も多岐にわたる。査定基準も、かつてからは考えられないくらい増えている。契約更改の席上で条件を提示して、そこから話し合いをする昔のスタイルでは、何日あっても足りない。球団も本当に大変な時代になったと思うよ。

 巨人の菅野智之投手の年俸が3年目で推定1億1千万円と、早くも1億円を超えた。もう1億円を大台と言えない時代が来たな。私が入団した時は年俸180万円。月の給料でいえば、税金や寮費を抜かれて13万円くらいの手取りだったかな。1千万円がスーパースターの証明、いわゆる「大台」とみられていた時代だった。隔世の感がある。

 査定だって、あのころは勝利数、防御率、イニング数くらいかな。勝率なんてない。流行のクオリティー・スタート(先発で6回以上3失点以内)なんて言葉もない。だから、1勝の重みが違った。私がルーキーの1969年。先発して6、7回まで勝っていて、稲尾和久さんにリリーフしてもらったが、逆転されて白星が消えたことがあった。あの1勝で給料何十万円が飛んだかと思うと、冗談の一つも言いたくなったよ。「稲尾さん、僕の1勝分、払ってくださいよ」なんて言った気がする。

 1億円と言えば、私がその大台を突破した時のことも思い出す。86年シーズンの後、87年の年俸で1億円となった。投手では初の大台だった。

 
 その年、ロッテから中日に移籍した落合博満が先に、球界初の1億円プレーヤーとなっていた。だけど、私にも意地がある。86年の広島との日本シリーズでは、史上初の第8戦までもつれ込んで日本一になった。個人の成績もさることながら、やっぱりチームの優勝に貢献することが大きなステータスだと思っていた。

 下交渉では、9500万円。実は当時の球団代表の坂井保之さんは、仲人を務めてくれた人物。坂井さんに、契約更改交渉の席上で「500万円を自分で払うから1億円にしてくれ」と懇願した。坂井代表はいったん外に出て、オーナーか誰かと話したのだと思う。私の意気を感じてくれたのか、1億円を提示してくれた。「億」なんて数字は見たことがない。机の下で「0」が8個あることを指折り数えて確認したことを思い出す。それが投手初の1億円突破の舞台裏だよ。

 最近、年俸を公表しない選手が増えてきている。金額をはっきり言えない、複雑な契約が増えている事情も分かる。球界全体のバランスというものもある。ただ、実際の額とマスコミの推定額が倍近く違うなんて話も聞く。あまりグレーゾーンが増えるのもどうか、と感じる。高い給料をもらっていることに責任を感じ、自分にプレッシャーをかけて戦うことも必要。さらに、夢ある数字をファンにみせることも大切なことだと思うのだが。

週刊朝日  2014年12月12日号

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東尾修

東尾修

東尾修(ひがしお・おさむ)/1950年生まれ。69年に西鉄ライオンズに入団し、西武時代までライオンズのエースとして活躍。通算251勝247敗23セーブ。与死球165は歴代最多。西武監督時代(95~2001年)に2度リーグ優勝。

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