NHK大河ドラマにも取り上げられ、当時は「天才軍師」と称された黒田官兵衛。その頭脳は遺伝したのか、子孫には学者肌が多いと黒田家第16代当主・黒田長高氏が明かす。

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 黒田家は明治維新のころ東京へ移住します。霞が関にあった上屋敷は接収されて新政府の外務省として使われましたから、赤坂の中屋敷に住みました。大きな鴨池やいくつもの蔵がある敷地は、2万坪(東京ドーム約1.4個分)ほどあったそうです。

 官兵衛の祖父・重隆(しげたか)は、家に伝わる目薬を売って財をなしたそうですが、幕末の官兵衛の子孫は、10代・斉清(なりきよ)、11代・長溥(ながひろ)と、本草学(薬用となる動植鉱物を調べる学問)で名をあげた学者肌の殿様が続きました。

 学者が育つ家風だからなのか、赤坂の屋敷で生まれて鴨池を見て育ったからなのか。祖父の長礼(ながみち)は鳥類学者となり、カンムリツクシガモという新種の鴨を発見しました。「日本の鳥学の祖」とも呼ばれています。

 祖父のことは「おじじちゃま」と呼んでいました。敷地は同じでも、住んでいる建物は別です。庭でセミを捕まえようとして祖父の家の近くへ行くと、出てきた祖父に声をかけられたという記憶はありますが、顔を合わすのは年に数えるほどしかありませんでした。

 親父が子どものころは、もっとすごかったらしい。正月に親父と親戚の子どもたちが座敷の奥に並んで座っていると、ふすまが開いて、大きな部屋の奥のほうに祖父が座っている。子どもたちが「おめでとうございます」とあいさつすると、祖父が「んー、おめでとう」と言い、ふすまがスーッと閉まってしまう。一年で祖父と会うのは、たったそれだけだったという話です。

 祖父の鳥好きを見ていたからか、親父の長久(ながひさ)も鳥類学者になりました。東京帝大理学部の動物学科を卒業後まもなく徴兵されましたが、配属された近衛師団司令部では「鳩班長」となりました。第2次大戦のときは、軍の機密を伝書鳩が運ぶことがまだあったんですね。その伝書鳩の飼育と訓練ですから、親父にはうってつけの仕事だったでしょう。戦後は、山階(やましな)鳥類研究所に入所して、のちに所長になっています。

 親父は鳩班長だったときに、母と見合い結婚をしました。戦時中ですから、赤坂の自宅で質素に式を挙げたようです。坊主頭で軍服姿の親父と和装の母の写真が今でも残っています。

 母は公家(くげ)の醍醐(だいご)家の娘でしたが、今でいう「リケジョ」の元祖みたいな人でした。アマチュア無線の免許を持っていて、私が小学校から帰ると、自作の真空管無線機に向かって「CQ、CQ」と呼びかけていることもよくありました。アマチュア無線にハマってはいましたが、戦前とちがって家にお手伝いさんはいませんから、家事もしっかりこなしていました。

 私が子どものころ、祖父と両親と叔父叔母たちが連れだって鴨猟に行くことがありました。そのころには屋敷に鴨池はなく、鴨の狩猟場は羽田でした。鴨猟の日の晩ごはんは鴨のすき焼きです。おいしかったなあ。すき焼きといえば鴨肉だと思っていた。牛肉のすき焼きがあるなんて、大人になるまで知りませんでしたよ。

 獲ってきた鴨の羽をむしって料理するのも母の役目でした。とてもじゃないけど、公家の娘には見えなかった。掃除も洗濯もするし、鴨もさばく(笑)。

(構成 本誌・横山健)

週刊朝日  2014年12月5日号