司馬遼太郎夫人の福田みどりさんが12日、85歳で亡くなった。司馬さんが亡くなってからも激動の日々だった。担当記者が垣間見た、みどりさんと司馬さんの世界をお届けする。

 2人は大阪の産経新聞社で知り合った。新聞記者同士で、司馬さんのほうが6歳年上である。どこをデートしたんですかと聞くと、

「大阪駅前の書店やパチンコ店で待ち合わせして飲んで、夕陽丘に近い源聖寺坂をのぼっておりて、上六(上本町六丁目)に抜けてコーヒー。お金があれば食事する。それがいつものコースかな」

 どこかで聞いた経路だなと思うと、これは『燃えよ剣』に出てくる。新選組の土方歳三が恋人のお雪と別れの一晩を過ごすのが夕陽丘なのである。

「あのころ、いつでも財布に千円札が入っているような生活がしたいねって、2人で話してましたね」

 結婚したのは1959年1月だった。仕事を辞(や)めるつもりはなかったが、司馬さんは辞めると思っていた。その経緯は、司馬さんのエッセー「私の愛妻記」に詳しい。辞めるなら早めに会社にいったらと、司馬さんがいうと、

<「あたし、会社、辞めるの?」
「それァ、そうや」
「じゃ、結婚やめるわ」>

 痛快なみどりさんが描かれている。本当はいろいろ悩みつつも、仕事は続けた。入社10年目で仕事がおもしろくて仕方がなかった。

 しかし、司馬さんはだんだんとビッグになっていく。60年に『梟(ふくろう)の城』で直木賞を受賞し、加速度的に仕事量が増える。

 ある日、豪雨で交通機関がマヒし、みどりさんは家に帰ることができなかった。電話も通じなかったため連絡もできず、翌日帰ると、司馬さんは謝るみどりさんに子どものように背を向けた。やがて司馬さんは荒々しく振り返っていう。

「俺は鶏(にわとり)になってしまうところだったんだぞ」

「鶏?」

「当たり前だ。卵ばかり食べていたら、誰でも鶏になる」

 家にある卵を夜、朝、昼と食べ続けていたらしい。

<私ハ返ス言葉モナク、俯(ウツム)イテイマシタ。笑イヲ噛ミ殺シテモイマシタ>(『司馬さんは夢の中3』)

 ほっておけない人なのである。そして62年に『竜馬がゆく』『燃えよ剣』の連載が始まるなど、ますます忙しくなり、ついにみどりさんは支える決意をし、退社する。64年だった。

<こうして司馬さんと私は、つねに一緒に、足を蹴り合い、肩をぶつけ合い、しながら、四十年近くも踊り続けたのです>

 膨大な作品と読者を残して司馬さんが亡くなったのは96年2月。もっとも悲しい人が、もっとも忙しくなった。

 無数の雑務、インタビューをこなし、司馬遼太郎記念財団の理事長となった。司馬さんを偲ぶ「菜の花忌」では多くの聴衆を前に、挨拶をするのが恒例。内輪の会でも挨拶をいやがっていた人が、司馬さんの思い出を語るとついつい話が長くなった。自然体の語り口を楽しみにしている人は、実に多かった。

週刊朝日  2014年11月28日号より抜粋