人間国宝で狂言師の野村万作さん(83)は今でも現役を続けるその理由をこういう。

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 3歳で「靭猿(うつぼざる)」の子猿で初舞台を踏んで芸歴80年。記念する会を来月、東京・千駄ケ谷の国立能楽堂で開きます。演目は面をかけず装束もない袴狂言「釣狐(つりぎつね)」と、倅の野村萬斎と舞う「三番叟(さんばそう)」です。

 80を過ぎた者が技術的にも体力的にも厳しい「釣狐」を演じることはまずないでしょうね。私の家では代々「猿(靭猿)に始まり狐(釣狐)に終わる」と言われる奥深いもので、何遍やっても演ずる白蔵主(はくぞうす)では満足する出来にならない。人間に化けた狐の心、化けた後の人間の心の両面を表現しようとしていますが、難しい。30回近く演じてきますと、衣装や面という外側のものを越えたいという気持ちが出てきます。自分だけのもの、体力や技術も乗り越えた中身での表現、つまり“素”です。これは誰も教えてくれないから自分でつくり上げるしかない。

 私の最初の師匠は祖父の初世野村萬斎、祖父の死後は父の六世野村万蔵から稽古を受けました。

 釣狐は79歳で他界した父にしたたかに教わって乗り越えようとした最初の曲で、父の年齢を超えた83歳の今、回数を重ねる責任も感じております。

 年を重ねるとエネルギーが外に向かいにくくなる。例えば「三番叟」の冒頭、「おうさえおうさえ 喜びありや」という言葉も、若ければ「喜びありやーっ」と声を張りますが、今はやれませんし、やりません。

 代わりにじっくりと、その喜びを滲み出させる。華やかな感じはだんだんなくなるけれど、芯から幸福をばらまくというか。おのずから観客に浸透していく吸引力のエネルギーが大事だと思います。ま、理想ですが(笑)。

 若いころは演出家の武智鉄二さんと組んで観世寿夫さんと踊ったり、宇野重吉さんの演出で木下順二さんの「子午線の祀(まつ)り」に出演したり、新作狂言にも挑んだ。狂言を愛し、すばらしい演劇であると知らしめたい一心でした。狂言は、演劇界の中でも、能の中でも、すべてにおいて評価が低かった。笑いを軽視する傾向がありましたから。

 そういう風潮に反発し、地位を向上させようと、狂言を背負ってさまざまな分野に飛び込んでいった。今でこそ多くの方が評価してくださり、2007年に人間国宝に認定していただきましたが、初めのころはつらいこともたくさんありました。その中から、今活躍している40~60代の方々の自由な雰囲気は生まれてきている。倅なんかは狂言師じゃなくて俳優のイメージが強いんじゃないですかね。

 これから先は、そう数多くの舞台には出られないだろうけれど、だからこそ一期一会、一つひとつを大事にやっている姿を弟子たちに感じとってほしい。覚えが悪くなってますから、めったにやらない役は間違ったりするんですけれども、そこは置いといて(笑)。役の幅は狭まるけれど、愛着は深くなります。宇野さんのように、やわらかくしなやかに役へ向かっていきたいです。

 来月に向けた体力づくりで、天気がいいと縄跳びをやります。100回ぐらい。大したことはありません。

 46歳の時、釣狐で芸術祭大賞をいただいた際のパーティーで、父が「倅がライバルになった」って、あいさつしたんです。ずっと褒められたと喜んでいたんですが、最近、思うんです、実は違ったんじゃないかと。言葉は悪いが「あん畜生、教えたとおりじゃなく勝手にやりやがった。だったら俺はもっときちっとしたのを見せてやる」という気持ちもあったんじゃないか。

 この年になって初めて感じるようになりました。

週刊朝日  2014年10月31日号