『昭和天皇実録』から読み解く 7月には伝わっていた天皇の終戦意図 (2/2) 〈週刊朝日〉|AERA dot. (アエラドット)

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『昭和天皇実録』から読み解く 7月には伝わっていた天皇の終戦意図

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週刊朝日#皇室

 宮内省御用掛を務めた外交官の寺崎英成が、昭和天皇が戦後に語った言葉をまとめた「昭和天皇独白録」では、鈴木貫太郎首相が45(昭和20)年6月に「詔書を出して国民を激励して頂きたいと云って来たが」、和平に動き出したのだから断ったと昭和天皇が述べたことになっています。しかし実録によれば、6月22日に鈴木が求めたのは「沖縄の将兵及び官民への詔勅」だった。独白録には記憶違いがある可能性があり、実録で補正しようとしたのではないかと感じました。

 昭和天皇は6月20日夜、「皇后と共に観瀑亭・丸池付近にお出ましになり、一時間にわたり蛍を御覧になる」と実録に書かれています。参謀総長から沖縄の組織的戦闘が終了した旨を聞かされた夜のことです。実録の描写はあくまで「叙事」に徹しており、「叙情」的ではないのですが、それだけにこの日についての叙述は印象に残りました。この年の5月に明治天皇ゆかりの宮殿が空襲の影響で炎上するのですが、その後の5月28日夕刻、天皇は塩原産の野草を御文庫(天皇の防空壕)前の庭に植えています。野草を植え、蛍を見るというしぐさの意味を考えたいですね。

 皇太子時代の21(大正10)年の欧州訪問の途上、天皇は沖縄、台湾、香港、シンガポールに寄港しつつ、世界に向かいました。沖縄から南北2千キロの円を描けば、北はウラジオストク、南はフィリピン・ルソンまで入ってしまう。沖縄の地政学的重要性が肌身でわかっていた天皇ならではの沖縄観があったのではないでしょうか。

 降伏直前の45年7月、ソ連を仲介とした終戦工作の動きがありました。長谷川毅さんの『暗闘 スターリン、トルーマンと日本降伏』などにも書かれていますが、実録を読むと昭和天皇の終戦の意図が連合国に伝えられていたことの意味について再度考えさせられます。

 7月7日、天皇は鈴木貫太郎首相に「ソ聯邦(れんぽう)に対して率直に和平の仲介を依頼し、特使に親書を携帯させて派遣しては如何」と伝え、さらに天皇は18日、スターリン・ソ連共産党書記長が米英首脳と独ポツダムで会談する前に自身の親書が届いたかどうかを東郷茂徳外相に確認。「ポツダム会談前に我が方の申し出を先方に間に合うよう伝え得たことは誠に結構である」と述べています。

 もちろんよく知られたように、ソ連は親書に述べられた天皇の意思「速カニ平和ノ克服セラレムコトヲ希望セラル」を知りつつ、特使派遣の意図を再度尋ねるという形で時間をかせぎつつ、ポツダム宣言を発表しました。

 ポツダム宣言前後の歴史については、国体護持をめぐる政府の意思決定が遅れた結果、広島への原爆、ソ連参戦、長崎への原爆を招来した、といった過誤と惨禍の過程から説明されます。その説明自体は歴史の説明としてまったく正しいのですが、「天皇陛下ニ於カセラレテハ今次戦争カ(略)速カニ終結セラレムコトヲ念願セラレ居ル次第」という親書の文句が、日本側の国家意思としてポツダム会談前に連合国側に伝えられていたことの意味を考えたいのです。

週刊朝日  2014年10月10日号より


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