今年10月で80歳、傘寿を迎えられる皇后・美智子さま。同い年のジャーナリスト、渡邉みどりさん(80)が、人びとに寄り添い続ける美智子さまの原点ともいえる疎開時代をつづった。

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 東京のシャンゼリゼといわれる原宿から青山にかけての一帯は約70年前には、悲しい歴史がありました。

 地下鉄表参道駅のそばにひっそりと建つ追悼碑。昭和20(1945)年5月25日、赤坂や青山、中野などが標的となり、皇居の明治宮殿も焼失した山の手空襲の戦災者3651人の魂を弔うために、建立されたものです。

 38歳で亡くなった、美智子さまの父方の叔父、正田順四郎氏も犠牲者の一人です。昭和22(47)年、聖心女子学院中等科1年生だった美智子さまは、正田家三回忌の追悼文集「憶ひ出」に「順おじ様」という追悼詩を掲載しています。

 思い出せば もう三年前になる/日あたりのいい 鵠沼の家で/順おじ様を/皆してかこみ/かけっこ かけっこと せがんだものだった。/順おじ様も 上着をかなぐりすて/砂かげろうの立つ鵠沼の庭を/ヨーイ・ドンで/皆して走る/何度やり直しても おじ様の勝だった。
 今でもお庭で かけっこをして遊ぶと おめがねの下で 笑いながら/私達をかけぬけて ふりかえられる/おじ様のお顔が 見えるように思う。
 館林の悲しい おそう式がすんで/軽井沢また東京と 住む場所が変っても/私の手箱の中に 思い出をこめて/おじ様のお形見が ひめられている。

 美智子さまの繊細な感性をよく表した詩です。

 美智子さまは、戦争中は神奈川・鵠沼(くげぬま)、群馬・館林、長野・軽井沢の3カ所で疎開生活を体験されています。

 最初の疎開は、美智子さまが雙葉小学校4年生のとき。神奈川県の鵠沼海岸にある日清製粉の寮に移りました。美智子さまと弟の修さん、妹の恵美子さんと母の富美子さん、そして父方のいとこである正田紀子(のりこ)さんと母の郁子さんという6人の共同生活。会社を離れられない父の正田英三郎さんや叔父の順四郎さん、学生だった兄の巌さんは東京に残り、離れ離れの生活を送っていました。1歳違いのいとこ同士の美智子さまと紀子さんは、足かけ2年の疎開生活を共に過ごしたのです。

 昭和20年3月、硫黄島が玉砕。空襲も激しくなりB29がサイパン島から相模湾に侵入してきました。鵠沼海岸も米軍の艦砲射撃の危険があることから、正田家の本家がある群馬県の館林に再疎開したのです。

 美智子さまたちは、館林南国民学校に転入しました。ふたりは新しい環境になじもうと、館林のべぇべぇ言葉で子供たちと会話をしました。美智子さまは、東京の言葉にまで「べぇ」をつけて、「行くべぇ」というべきところを、「行きましょうべぇ」と話したこともあったそうです。

 美智子さまは正義感の強い少女でした。あるとき、お友達が腹痛で倒れてしまいました。しかし、頭にシラミがわいているものですから、みんなは手を貸すのをためらっていました。すると美智子さまは、さっとその子をおぶって、衛生室まで連れていったそうです。

週刊朝日  2014年10月10日号より