戦国時代、123万石の大名として栄えた丹羽(にわ)家。しかし、その後、波乱万丈(はらんばんじょう)な道を歩んだ。その栄枯盛衰を丹羽家第18代当主・丹羽長聰(ながとし)氏が語った。

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 織田信長の重臣として仕えた丹羽長秀が初代になります。柴田勝家らと織田四天王と呼ばれることもあるようですね。年がほとんど同じだった信長とは幼友だちのような間柄。信長の姪(めい)を奥さんにもらってもいます。

 長秀については、僕なりに疑問があるんですよ。本能寺の変のとき、長秀は堺にいた。明智光秀に最も近い場所にいたわけ。自分で光秀を討てばよかったのに、なぜ、豊臣秀吉が毛利攻めから戻ってくるのを待って合流したのか。

 一番わからないのは信長の後継者を決めた清洲会議。柴田勝家が擁立した信長の三男・信孝じゃなくて、秀吉が擁立した信長の長男の子である三法師(さんぽうし)についた。秀吉の器量を買ったということなのかな。秀吉と勝家が戦った賤ケ岳(しずがたけ)の戦いでも、長秀は秀吉に味方します。この功績で越前や加賀の一部を与えられて、123万石の大名となりました。

 長秀が亡くなり後を継いだ2代・長重は浮き沈みの激しい人生を送りました。

 まず、秀吉に軍律違反だとか言いがかりのような理由で次々と領地を取り上げられていき、しまいには123万石から4万石にまで減らされてしまいます。

 秀吉にうまいことやられたけど、僕は仕方のないことだと思っています。後を継いだときの長重は、まだ15歳でした。今でいえば中学3年が県知事になったようなもの。務まるわけがない。誰かに乗っ取られてしまうかもしれないでしょ。僕が秀吉でもそうしたんじゃないかな。それでも、朝鮮出兵のときには、いち早く駆けつけて、12万5千石まで加増されています。

 徳川の時代には、もっとひどい目にあいます。関ケ原の戦いでは、西軍についたために領地を没収された大名が多くいましたが、長重もその一人。すべての領地を失い、一介の素浪人となってしまいました。ところが、数年後には許されて1万石の大名になり、さらに今の福島県にあった棚倉5万石、白河10万石と出世していきます。

 123万石という有数の大名からスタートし、すべてを失って浪人となり、そこから10万石の大名に復活した。動乱の戦国時代とはいえ、ここまで波瀾万丈な人は珍しい。

 長重の復活劇には、特殊技能が大いに関係していました。丹羽家は、長秀のときからすぐれた築城技術を持っていました。徳川幕府は、それに目を付けたのだと思います。長重は、棚倉で棚倉城を築き、白河では白河小峰城を完成させています。どちらの地も東北の玄関ともいえる場所。すぐ北の仙台には、強力な野心家、伊達政宗がいました。丹羽家が手がけた城は、幕府が恐れていた政宗への備えだったのでしょう。

 3代・光重のときには、同じく福島県にある二本松に移りました。それからは200年以上、明治維新まで丹羽家が二本松藩を治めています。

 二本松藩って、けっこう大きいんですよね。郡山市の大部分とか猪苗代湖まで、ずうっと二本松藩だった。平成の大合併で、二本松市もずいぶん大きくなったなぁと思っていたら、地元の方に「昔の3分の1です。まだ3分の2が戻ってきておりません」と言われましたよ。〈次号に続く〉

(構成 本誌・横山 健)

週刊朝日  2014年9月26日号