ロバート・プラント1948年生まれ、イギリス出身。ジミー・ペイジに誘われ、「レッド・ツェッペリン」のメンバーに。1980年に解散を迎えるまで、そのルックス、ハイトーン・ボーカルなどで観客を魅了。ソング・ライターとしても大きく貢献した(写真:gettyimages)
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ロバート・プラント
1948年生まれ、イギリス出身。ジミー・ペイジに誘われ、「レッド・ツェッペリン」のメンバーに。1980年に解散を迎えるまで、そのルックス、ハイトーン・ボーカルなどで観客を魅了。ソング・ライターとしても大きく貢献した(写真:gettyimages)

 8月、久しぶりに来日したロックの王者「レッド・ツェッペリン」のボーカル、ロバート・プラント(66)。新たなバンドを引き連れ、「胸いっぱいの愛を」などの名曲をステージで披露し、圧倒的な存在感を示した。最前線で今も歌い続けるカリスマが本誌だけに語った日本の思い出、その美学とは?

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――今年はレッド・ツェッペリンのオリジナル・アルバムが再リリースされて、当時生まれてもいなかった若い世代が聴くいい機会になったのではないかと思います。ファンも大きく変わったと思いますが、それについてどう思われますか?

 あまり考えないな。これまでやってきたことと言えばひたすら音楽作り、創作にうちこんできた。それによって自分が向上できるから。過去は僕にとって非常に大切で、とても誇りに思っている。自分は音楽界の過去に大きく貢献したと思う。しかし今やっている音楽も同様に大切だし情熱を感じている。自分の声、音楽への業績、また過去における様々な人々との共作を考えれば、こうやって生きてきたことが夢のようだよ。14、15歳の少年の頃、初めてスクール・バンドに加わったんだ。そのときはどんな音楽をやりたいか、何を歌いたいかなんて考えてもいなかった。とにかく歌うのが大好きだったんだ。だから今、この年になって、イギリスから飛行機で日本に来て大きなロック・フェスティバルで歌う。若い頃の僕は、こんなことが自分の人生に起こるなんて想像もできなかったからね。

――レッド・ツェッペリンの曲を歌わない時期もありましたね。最近のステージは、バンドのザ・センセーショナル・スペース・シフターズを従え、「ベイビー・アイム・ゴナ・リーブ・ユー」「ゴーイング・トゥ・カリフォルニア」などを披露していますが、その心境の変化は?

 というのは、今のバンドのスタイルならやっても意味がある、と感じているからだ。レッド・ツェッペリンの曲をそのままやっているのではなく、翻訳していると感じているから。まるで外国語の詩を翻訳するように。ペンギン・ブックスは初期のアングロサクソンの詩文学作品の翻訳を20年ごとに変えるが、若い世代の人たちが容易に理解できるようになるという配慮だと思うんだ。ロックも、同様なことが必要なんだと思うよ。

――レッド・ツェッペリン再結成を多くの人が望んでいますが、あなたがその気にならないのはなぜ? 過去の伝説を壊したくないからですか?

 それについては特に意見がないよ。今はツェッペリンの全盛期とは違う時代なんだよ。創作する場合、どの時代においても、やるなら最高になりたいと思う。その時代を反映させたもの、時代に合ったものを作りだしたいと思う。それしか言えないね。

――1971年に初来日したときのことは覚えていらっしゃいますか?

 正直なところよく覚えていないんだ。あのときした冒険、日本人との友情についてぼんやりと覚えているだけ。それは素晴らしかった。ロックを携えて日本の土を踏むのは、当時は新しいことだったし、僕らも若かったからね。生まれて初めて大きなニコンカメラを買った。カメラもレシートも今でも持っているんだ。壊れてしまって使えないけれどね(笑)。来日の後、インドも訪れた。ボンベイ(ムンバイ)でレコーディングしたんだ。僕らにとって日本での体験は啓示だった。日本文化は僕らがなじみのある西洋文化とは全く違っていて。友達もできたし、人々は優しく驚かされ魅了された。

――一番の思い出は?

 日本各地を訪ねたが、広島の病院を訪問し、市長に会ったことも記憶にある。コンサートでの収益を広島市に寄付した。自己発見の旅だったと言えるな。当時の僕はまだ23歳の子供だったから。そんな僕がイギリス文化とこれほど異なる文化を体験するのは大事件だったんだ。その後、何度か日本に来たが、発展ぶりを見るのも興味深い。変化も著しいし、社会や経済の変動も目のあたりにして、日本という国を自分なりに理解しているつもりだよ。

(音楽ライター・高野裕子)

週刊朝日  2014年9月19日号より抜粋