ジャーナリストの田原総一朗氏は、「終戦の日」がジャーナリストを志すきっかけになったと当時の思い出をこう振り返る。

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 また8月15日がやって来た。私にとって生涯の最大の事件といえば、1945年8月15日の昭和天皇の玉音放送である。

 私は小学校5年生だった。正午に天皇の重大放送があるというので、ラジオの前に座って待った。近所にはラジオのない家もあって、5~6人の近所の人々が一緒にラジオを聞くことになった。

 当時の雰囲気は鮮烈に覚えている。天皇の玉音放送が始まった。しかしノイズが多くて聞き取りにくい。私たちは緊張して懸命に聞いた。

「敵は新に残虐なる爆弾を使用し」という言葉があった。広島、長崎で米軍が投下した原爆のことだとは見当がついた。それが降伏の直接のきっかけになったわけだ。「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び」という言葉もあった。

 玉音放送が終わると、近所の人々の意見は二つに割れた。一方は、「堪え難きを堪え、と天皇が言うのは、戦争が続くということだ」という。当時、軍の幹部は本土決戦を主張していたのだ。もう一方は「いや、降伏したのだ」という意見だった。午後になって市役所の職員が、メガホンで「戦争は終わりました」と言って回った。

 降伏というかたちで戦争が終わったとわかり前途が真っ暗になった思いがした。私は海軍兵学校にいこうと決めていたので、その将来展望がゼロになったのである。

 私は2階へ駆け上がって泣いた。そして泣きながら寝てしまった。起きると夜になっていた。そして2階から下を見ると明るかった。昨夜まで灯火管制で真っ暗だったのだが、戦争が終わり、どの家も明かりをつけたのだ。複雑な解放感があった。

 
 だが、学校が始まると理不尽極まりない出来事が起きた。私たちは5年生の1学期までに、この戦争はアジアの国々を独立させるための聖戦で、侵略国の米英を打ち破るために君らも早く大きくなって出征し、天皇陛下のために名誉の戦死をせよ、と繰り返し教えられてきた。

 ところが2学期になると、同じ教師、校長が、実はあの戦争はやってはならない戦争だったと決めつけるように言い、1学期までは英雄だった東条英機など軍の幹部たちが犯罪者呼ばわりをされた。天皇は「どこかにいってしまった」という。教師や校長たちが、やむなくそう言わざるを得ないのだとは、小学校5年生の私にもわかった。しかし、ということは、1学期まで「この戦争が聖戦だ」と言っていたのも、そう言わざるを得なかったのではないか。

 教師たちだけでなくほとんどの新聞記事も、同じ価値転換をあっさりやってのけていた。偉そうな顔をしている大人たちがもっともらしく言うことは基本的に信用できないという思いになった。おそらく私の後輩の戦争を知らない世代は、これほどの理不尽な価値転換に遭遇したことはないだろう。

 といって、私はノイローゼになったわけではない。大人たちの言うことは、何事も疑ってかからないとだめだと、念押しされたかたちになったのだ。もちろん、首相や大臣たちの言うことなども、信用するのが間違っている。

 この体験が、私がジャーナリストを目指す原点となった。あらゆることを疑い、一つひとつ自分の目で見て確かめる。確かめながらさらに疑う。嫌なキャラクターかもしれないが、どうしようもないのである。

週刊朝日  2014年8月29日号

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田原総一朗

田原総一朗

田原総一朗(たはら・そういちろう)/1934年、滋賀県生まれ。60年、早稲田大学卒業後、岩波映画製作所に入社。64年、東京12チャンネル(現テレビ東京)に開局とともに入社。77年にフリーに。テレビ朝日系『朝まで生テレビ!』『サンデープロジェクト』でテレビジャーナリズムの新しい地平を拓く。98年、戦後の放送ジャーナリスト1人を選ぶ城戸又一賞を受賞。早稲田大学特命教授を歴任する(2017年3月まで)。 現在、「大隈塾」塾頭を務める。『朝まで生テレビ!』(テレビ朝日系)、『激論!クロスファイア』(BS朝日)の司会をはじめ、テレビ・ラジオの出演多数

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