大政奉還が行われ、新政府が日本を治めた明治時代。その際、新政府に会津藩は討伐されたが、当時会津藩を治めていた会津松平家の第14代当主・松平保久(もりひさ)氏は今も「どうして会津藩を追い詰めたのか」という思いがあるという。

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 初代会津藩主の保科正之は、3代将軍家光の腹違いの弟です。松平姓は、3代正容(まさかた)から名乗りました。

 正之は、家光にとても信頼されました。家光が臨終のときには枕元に呼ばれ、まだ11歳だった次の将軍家綱をたすけ、幕府の運営を頼む、と言われたそうです。だからでしょう、正之は、目をかけてくれた家光に対する恩といいますか、徳川幕府への忠誠心がとても強かった。晩年、その思いをまとめたものが、「会津家訓十五カ条」です。藩の家訓として残されました。

 昔は年に2、3回、城内で藩主と家臣一同が集まって、家訓を読み上げてみんなで聞いたそうです。去年のNHK大河ドラマ「八重の桜」でもそういう場面がありましたね。

 第1条は「大君の儀、一心大切に忠勤に励み、……」というもので、一般的には徳川将軍家への忠誠を誓ったものと言われています。この家訓が、幕末に9代容保(かたもり)が京都守護職をうけることにつながっていきます。

 京都守護職というのは、いわば京都の警察機構のトップです。幕末の動乱期に反幕府勢力を取り締まる役というのは貧乏くじです。経済的にも出費が大変です。容保も十分理解しておられたでしょう。「八重の桜」でも、家老役の西田敏行さんが「ご退任くださりませ」と言っていましたけど、実際、同じようなやりとりがあったそうです。

 結局引き受けたのは、容保自身が養子で松平家に入ってきたのも要因だと思います。他家から来ただけに、自分の代で家訓に汚点をつけるようなことがあっては決してならぬ、という思いが強かったのではないでしょうか。

 戊辰戦争のときに、容保は隠居して、水戸徳川家から養子縁組した喜徳(のぶのり)に家督を譲ります。会津藩は新政府と戦いません、という意思を示したのですが、許されなかった。

 新政府は、容保の斬首と領地没収という条件を出してきました。自ら藩を消滅させろ、という要求です。それはさすがに容保ものめないし、家臣の人たちも納得いかない。新政府は、会津が受け入れるわけがないのを知りつつ、そういう条件を突きつけて、討伐する口実にしたのだと思います。

 徳川慶喜が大政奉還を行い、江戸城が無血開城された時点で、倒幕の目的は達成されたと思うのですが、会津藩を徹底的にたたくことで、日本全国に徳川将軍家の時代が終わって、明治の新しい時代が来たんだということを知らしめたのでしょう。大きな時代の流れとはいえ、なぜそこまで会津を追い詰めたのか、という思いはありますね。

 30年くらい前に、山口県萩市から会津若松市へ友好都市になりませんかというお話がありましたが、会津若松市はお断りしています。

 今の長州や薩摩の方たちに恨みはないですけど、歴史のなかでそういう戦争があったということは事実です。双方それぞれに思いがあったでしょうし、それを正しく伝えることが大切なんじゃないでしょうか。会津と長州が仲直りみたいになっちゃうと、そういうことが曖昧になるでしょう。

 たまには意地張って、ならぬことはならぬものです、と言うのもいいんじゃないでしょうか。<次号に続く>

構成 本誌・横山 健

週刊朝日  2014年7月4日号