都内在住の元自営業Sさんは「競馬命」の人生を送ってきたが、71歳の2005年暮れ、直腸がんにかかってしまった。リンパ節に転移していたため、
「もっても3カ月ですね」
という診断。家族が落ち込むなか、友人が見舞金を持ってきた。中身は3万円で、Sさんは目を輝かせた。数日後に「有馬記念」が迫っていたのである。
「最後の有馬、一点勝負」
と娘に単勝馬券を依頼した。Sさんの指名したリンカーンは6番人気。ディープインパクトに挑んで3着だった。ただし、悔しがるうちに、抗がん剤が効いて最初のピンチは脱した。
しかし試練は次々に訪れる。翌年5月末の「ダービー」前に腹膜炎となった。緊急手術後に麻酔で朦朧(もうろう)としつつ、Sさんは言った。
「最後のダービーか」
11番人気のロジックで勝負し、結果は5着。秋にはがんが肝臓に転移したことがわかった。
「今度こそ見納めか」
穴狙いのSさんは珍しく、菊花賞では1番人気のメイショウサムソンを指名するも4着に終わる。
あれから8年。今や両肺にがんが転移しほぼ寝たきりだが、競馬は休まない。
08年秋の天皇賞は、名牝ダイワスカーレットが数センチ差でライバルのウオッカに敗れ、12年のジャパンカップは「生涯一」好きなオルフェーヴルが、ジェンティルドンナに直線ではじき飛ばされて負けた。
主治医は首をひねるが、次こそ!の思いがSさんをこの世につなぎ留めているようだ。娘心は複雑である。
「当てさせてあげたいけど、当たったら死んじゃいそう。貯金ももうないし」
14年の桜花賞も名勝負だった。怪物ハープスターが怒濤の追い込みでゴール寸前、Sさんが買ったレッドリヴェールをきっちりクビ差で差している。
※週刊朝日 2014年5月23日号