真田家14代当主の真田幸俊氏が“殿様”として、初めて大勢の人の前であいさつしたときのことをこう語る。

*  *  *

 子どものころ、毎年夏休みになると、真田家が治めていた長野・松代に家族で1週間ほど里帰りしました。

真田家だからという特別なことは何もなく、公民館で姉や両親と卓球をやっていた記憶しかありません。真田会などの家に関わる会合などは、全部祖父の幸治がやっていました。真田会というのは、松代で藩主を囲む会として祖父の代に始まったもので、旧家臣団の方ばかりではないです。会長が地元の元議員の方だったこともあります。

祖父が亡くなったあと、小学4年ごろから、父と一緒に真田会の会合に出るようになりました。このとき、父はがんになっていました。たぶん、父は最期まで聞かされていなかったと思います。母だけが知っていて、後を継ぐ準備という意味合いで、僕を会合に出させていたのでしょう。

父はいつもニコニコしていたという記憶しかないです。体調は悪かったと思いますが、そういうことを子どもたちには言わない人だった。3回くらい手術しましたが、がんは転移していて亡くなりました。

その後が大変でした。翌年が善光寺の、数えで7年に1度の御開帳でした。3月に松代藩が回向柱を奉納するという伝統行事があり、真田家の当主は裃(かみしも)をつけて、出席者の前であいさつをしなければいけない。

たしか、渡された原稿を読みました。大勢に囲まれて、間違えちゃいけないと、声が震えるくらい緊張したのですけど、あとで真田家の菩提寺である長国寺(ちょうこくじ)の住職に言われました。

「殿様は間違えても別にかまわないけれど、うろたえてはいけないのです」

殿様がうろたえると周りが困る。堂々としていればいいんだと、だいぶ気が楽になりました。

小中高校は学習院でしたが、大学は慶應の理工学部に入りました。今では学生のころに学んだ校舎で、ケータイなどの無線通信を専門に教授をしています。

この道に進んだのは父の影響です。父はテレビ朝日で技術として働いていました。入社試験がテレビを1台作るっていう、そんな時代だったらしい。わが家のテレビも父が作ったんですよ。故障すると、父が真空管を取り換えていたのも見ていた。これはすごいなと思って、無線関係の仕事をしようと決めました。

大学に入ってすぐ、数学の授業のあと、教授に「ちょっと、君」と呼ばれました。

「君、真田家と何か関係あるの? うちは昔、真田家の家来だったんだけど」

真田という名字に幸までついていたんで、だいぶ気になられていたようでした。「あ、えーと、本家です」と言ったら、「えー」と驚かれていました。

大学の先生は、定年になってやめるときに、それまでの教員生活を振り返って1時間くらいの最終講義をするんです。3年前にその教授の最終講義があって、僕も教員になっていたから聞きに行ったら、僕の話が出てきました。

「えらく心配した。これで頭が悪かったらどうしようかと思った」

家臣が主君に悪い成績をつけるわけにもいかないから悩んだ、ということ(笑)。さいわい良い成績で助かったとおっしゃっていました。

(次号に続く)

(構成/本誌・横山健)

週刊朝日  2014年5月9・16日号