先祖代々、子弟に同じ文字をつける「通字」という風習がある。真田家もその風習を守る家系の一つ。信之から14代目の真田幸俊氏は、その当主としての苦労についてこう語った。

*  *  *

 私の祖先である真田信之は幸村(信繁)の兄です。関ケ原の戦いで父・昌幸と幸村は西軍につき、信之は徳川の東軍につきました。その功で昌幸の所領だった信州の上田を継ぐことを許されたのです。それでも徳川に警戒されていたのでしょう。しばらく後、交通の要衝だった上田藩から松代藩に領地を移されました。

 信之が松代藩の藩祖で私が14代の当主になります。ただ、伝え聞いていることと言われても、父の幸長は私が中学3年のときに亡くなりましたので、家の話をするどころではなかったですからね。あたふたと家を継いだというのが実情です。

 そうですねえ、思いつくのは、祖父の代から家に仕えていただいていた方から聞いた話でしょうか。

 
 殿様というのは不自由だった、と言うのです。昔は風呂に入ったとき、たとえ少しぬるくても「いい湯加減だ」と言わなければいけなかった。もし「ぬるい」と言えば、係の人がクビになりますから。そういうところから家臣に気を配ることが重要だった。家臣がついてくることで体制を維持できる。殿様も楽ではなかったわけです。

 お宝についてもよく聞かれますけど、家に伝わる品々は、すべて長野市の真田宝物館に寄付しました。個人では所有してません。

 だいたい、お宝ってメンテナンスがものすごく大変なんですよ。よく時代劇で和紙をくわえて刀を手入れしていますけど、あれ、息とか唾(つば)が刀にかからないようにしているんです。息がかかっただけですぐ錆びてしまう。

 皿を持つときも、こうして(両腕を交差させて胸に抱きかかえるように)持て。転ぶときは手をつくな。骨は折れても治るけれど、徳川拝領の皿に何かあったらお家取りつぶしになる。というふうに、昔、家に仕える者たちは教えられたんだそうです。

 それだけ徳川には気を使っていたということでしょう。少しでも何かあれば、真田家は取りつぶしにされかねなかったと思います。真田家は、戦で何度も徳川を苦しめていますから。

 
 そうそう、当主ならではの苦労はありました。家系図を見ていただければわかると思いますが、代々の当主は、たいてい名前に「幸」の字がついています。信之ももともとは信幸でしたが、関ケ原で父親と弟が西軍についたこともあり、徳川にはばかって「之」に改めています。僕の名前にも「幸」がついてます。息子の名前にも「幸」をつけなければいけませんでした。まあ、「幸」だけでなく「信」でもいいというふうに聞いてはいるのですが、ずっと「幸」で続いてますから。そうしたら名前探しが大変でした。

 そんなときだけ急に信心深くなるのか、画数を考えるようになる。最初が「幸」で、画数が良くて、歴代公と同じ名前にならないようにすると、候補は四つしかありませんでした。四つの候補のうち幸実と幸宗は、

「それは時代劇の名前だ」

 って家内に拒絶されましてですね……、ええ、却下です。残り二つを息子2人に使いましたから、この後はない。ないです。もう僕の役目は終わりましたから、あとは知らないです(笑)。

(構成:本誌・横山健)

週刊朝日  2014年5月2日号