住大夫師匠の楽屋には、関係者が次々に挨拶に訪れる。入り口には紋入りののれんが掛かる(撮影/伊ケ崎忍)
住大夫師匠の楽屋には、関係者が次々に挨拶に訪れる。入り口には紋入りののれんが掛かる(撮影/伊ケ崎忍)
通し稽古の舞台に向かう住大夫。若い頃に興行で苦労した経験から、いつも観客に感謝し、大事にしてきた(撮影/伊ケ崎忍)
通し稽古の舞台に向かう住大夫。若い頃に興行で苦労した経験から、いつも観客に感謝し、大事にしてきた(撮影/伊ケ崎忍)

 この人の語りがきっかけで、人形浄瑠璃文楽に親しむようになった観客も多かったに違いない。

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 竹本住大夫。89歳。

 入門から68年、クライマックスを担当する「切場語り」になって33年、人間国宝として25年。約400年の歴史がある文楽を、昭和から平成にかけて大黒柱として支えてきた。

 根底にあるのは文楽への愛だ。「悪声で不器用」だったから、稽古するしかなかった。稽古のたび怒られながらも、師匠に「あんたも好きやなあ」と呆れられても、「もいっぺん」と食い下がった。「好きやさかい、苦労と思わん。プロやから当たり前や」

 ただ、「口」だけは師匠にも褒められた。唇の厚さ、頬の肉の厚さ、持って生まれた「楽器」は語りに向いた。その滑舌は、素人が字幕なしで意味が分かるほど明瞭だ。浄瑠璃が「古文」ではなく生きた日本語だと知れる。それだけではない。懐が広くて余韻がある語り口は、人形遣いがたっぷりと演じ、世界を作れるだけの「ため」を持つ。

 その最大の武器である滑舌が、2012年夏に奪われた。

 脳梗塞で倒れ、右半身に麻痺が残った。口や舌が思い通りに動かない。壮絶なリハビリで13年1月公演から復帰した。とはいえ一人語りではなく、登場人物ごとに数人で語り分ける「掛合い」形式。劇場と相談しながら決めた13年9月の東京公演は、好きな演目「伊賀越道中双六・沼津の段」だったが、かつてのように1時間以上かかる1段を丸ごとではなく、3人で語り分けた。「それだけでも情けない」。

 さらに14年1月の大阪、2月の東京と、やはり得意の「近頃河原達引・堀川猿回しの段」だったが、斬られた後の主人公の息遣いがうまくできない。大阪では「お茶を濁した」ものの、「慣れるかいな」と期待した東京で「こらあかん」。20年ほど相三味線(決まった大夫の相手を務める三味線)を務める錦糸には「気にならない。お客にはわからない」と言われたが「やっているのは僕。今までのようにやれん。迷惑をかけられん」と、腹をくくった。

 引退を決め、大阪に戻った直後に妻に相談した。「生活は大丈夫か」「何とかなります。やめなはれ」。それで国立劇場や文楽協会に相談、すでに出演が決まっていた4、5月の公演が引退興行となった。

 どんな名人でも引き際は難しい。先輩たちも、すぱっと身を引いた師匠もいれば、引退後に「引退なんてするな」と後悔する師匠も、出来不出来があっても舞台に執着し続けた師匠もいた。「好きやから」、辞めるのはつらい。だが、体力の限界、だった。

 4月の大阪・国立文楽劇場での「菅原伝授手習鑑・桜丸切腹の段」。得意の演目で、聞かせどころは、夫・桜丸の切腹に泣く八重に、義父・白太夫が声をかける、「泣くなや~」。八重が答えて「アイ~」。この掛合いが、声の高低やテンポを変えて何度か繰り返される。「僕、今までなら、もっと八重は突っ込んでやれてた。それがやれん。腹に力が入らん」。病の後、腹に力が入らなくなったと嘆く。

 初日前日の通し稽古では、語り終えた後に時間を気にした。35分。予定通りの35分なのに、「桜丸と白太夫の掛合いはもっとテンポよくやらなあかん。イキを詰まなあかんのに、口が重い。腹に力が入らん。お客さんにわからなくても、僕自身、気が咎める」。誰よりも文楽を愛し、芸に厳しい大夫ゆえの、自分の体が以前のように思い通りに動かないことへの口惜しさ、もどかしさがにじむ。

 後輩たちを、誰であろうと厳しく指導することでも知られた。楽屋にはいつも叱声が響いていた。「何年やってんのや」「お前ら(文楽が)好きとちゃうか」。

 その一方で観客は大事にした。戦後、文楽が2派に分かれた際、借金を抱え、営業もしながら地方巡業で苦労した経験からだ。30年前に国立文楽劇場が大阪に開場するまで、「朝日座」など民間劇場を借りて興行を打っていた。常に客の入りを気にし、生活は苦しかった。劇場開業後に入門し、当時の苦労を知らない後輩たちには「喜びと感謝と敬いの心」を説く。杉本文楽や三谷文楽などの新作を作ったり、劇場で技芸員が観客のお迎え・お見送りをしたりといった試みも歓迎する。それが新しい観客を開拓し、文楽の未来につながればいい、と。

 引退興行はたまたま縁のある演目だった。4月の「桜丸切腹」は父・先代住大夫が舞台中に倒れ、途中から引き継いで、未熟ながらも切場を演じた思い出の段だ。5月・東京の「沓掛村」は父の引退狂言でもあった。「千秋楽まで、無事、勤め上げられれば」。大阪は4月27日、東京は5月26日が千秋楽となる。

※チケットの問い合わせは国立劇場チケットセンター(電話03―3230-3000 ただし、大阪、東京とも、住大夫の出演する部は完売)

(週刊朝日編集長・長友佐波子)

週刊朝日  2014年4月25日号