1985年に『気がつけば騎手の女房』で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞し、現在はコメンテーターや地方分権改革推進会議の委員などを歴任する吉永みち子さんが、「死んで終わり」じゃない母との関係を話した。

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 子どもの頃、靴を買ってもらうことになり、母が好きそうな赤を選んだ。母を喜ばそうと新しい靴を履いてスキップし、「春よ来い」を歌った。すると母の顔から笑顔が消えた。いつもそうだった。突然、不機嫌になって私を全身で拒む得体のしれない憎しみと怒りを感じ、不安だった。

 母はよく言った。

「優しい子は死んで、優しくない子は生きている」

 優しくない子が私だと何となくわかった。優しい子に負けないよう母の機嫌を損ねないことばかりを考えた。家の中で気を抜いたことも熟睡したこともない。

 母の日記で、私に異父姉がいたことを知った。昭和11年に母は未婚で姉を産み、世間の白い目と闘いながら育てたが、姉は7歳で病死した。その後、母は22歳上の父と結婚して人生をやり直し、世間を見返したかったのだろう。だから、私がちゃんとしていないと許さず、「優しい子=姉が生きていたら」と思ったのだ。

 それでも私はずっと母と離れられなかった。27歳で騎手の故・吉永正人と結婚した時は父の遺産も自分の預金通帳も母に渡し、経済的に困らないようにした。

 私が40歳のある日、母の家に行くと、大きな市松人形が「さちこ」と名付けられていた。亡き姉と同じだ。まだ姉がいいのか! 強烈に頭にきた。永遠の理想である姉にはかなわない――思えば、あの時が、私が母を喪失した瞬間かもしれない。

 当時、私が日記に書き綴っていた望みは「母よりも一日も早く死ぬ」。私を大切な娘だと思い知らせたかった。だから私が42歳の時、母が旅先であっけなく死ぬと、「しまった!」と思った。

 私は大きな喪失感を抱いたと同時に、清々しい青空も見えた。これで葛藤や確執から解放される。しかし気づくと、私と母との関係は、私と子どもたちに連鎖していた。変に気を使い、距離のある家族になっていた。結局、私は母の影響を大きく受けている。母が死んでからも逃れられない。

 母を最期まで頑なにさせたのは、私のせいでもある。母の世話をしたのは愛情ではなく、そうしないと何を言われるかわからないからだ。そんな私に母も安心を感じられなかったはずだ。もっと感情でぶつかればよかった。親子はお互いが鏡なのだから。

 5年前、恐山のイタコを訪ねた。嘘でもいいから「いつも見守っている」という母の言葉を聞き、現世でのつらい関係に終止符を打ちたかった。あの世で穏やかに会えるようにと思った。だが、イタコに“降りてきた”らしい母は、「優しい子と優しくない子がいる」と、一番聞きたくない言葉を言った。別のイタコを訪ねると開口一番、「私も忙しいんですよ。どうぞ一人で生きていって」。私が望んだ優しい言葉は聞けなかった。やりきれなさを息子にぶつけると、「それ、お母さんが、おばあちゃんは“こう言うだろう”と思っていることだね」と言われた。

 ハッとした。母の姿は、私自身が作り上げていてそれとずっと格闘していたのかもしれない。

 母の死後、ベッドに入ると部屋のドアが開きっぱなしだったことがある。閉めに行くのが面倒で悶々としていると、すっとドアが動き、カチャッと閉まった。

 母だ、と思った。私は「ありがとね」とつぶやいた。母にお礼を言うのは初めてだった。生きている間に言えば良かった。

 没後20年以上経つが、今も気付かせられることがある。死んで終わりじゃないのが、母と娘なのかも。

週刊朝日  2014年3月28日号