京都の街を案内してくださった、森見登美彦さん(撮影/写真部・松永卓也)
京都の街を案内してくださった、森見登美彦さん(撮影/写真部・松永卓也)

 昨年、3年ぶりの長編小説『聖なる怠け者の冒険』(朝日新聞出版)を出版した森見登美彦さん。本屋大賞にもノミネートされているが、舞台は、自身も学生時代を過ごした京都だ。小説の舞台となった場所を特別に案内してもらった。

【森見さんご案内の京都写真はこちら】

*  *  *

 京都を舞台にして小説を書くから、「よほど京都が好きなんですね」と言われる。そういうときは、いつも申し訳ない気持ちで一杯になる。ごめんなさい。ごめんなさい。好きといえば好きなのだが、普通の好きとは言い難い。私はリアルな京都のことは知らず、ましてや「京都通」などにはほど遠い人種である。私は自分の妄想と言葉で作った京都に惚れているのであり、いわば狸の化けた偽京都こそが私の京都なのだ。

「私が書いているのは『偽京都』なのですよ」

 しかし、なかなかこれは言いにくい。

 一度こういうことを言ってしまえば、「偽京都とはなんぞや?」ということから説明せねばならず、私にとって小説とは何かということを説明することになっていく。京都について聞かれるたびにそんなことを喋ってたら、脳と喉から血が出るのだ。

 そういうわけで私はボンヤリとした顔で笑ってごまかすのだが、やっぱり私の書いているのが偽京都であるという事実はゆるぎなく、申し訳ない気持ちでぽんぽこりんである。

 もちろん、いくら小説が個人的妄想の産物だとはいえ、虚空から生まれるわけではない。必ず現実の材料がある。京都という街には、そういう妄想のタネになるものがたくさんあるのは確かだ。歴史、風景、人々の暮らしが絡み合い、タネを続々と生み出してくれるのだろうか。『聖なる怠け者の冒険』という小説を書き始める前、私は四条烏丸のそばに住んでいた。週末になると、ふらふらと街を歩いた。それを「取材」とは言いたくない。歩きながら妄想のタネみたいなものを、気まぐれに一つ一つ拾うだけのことだ。

 いつ使うのか分からないタネをとりあえず集めて保管しておくのが小説家の仕事である。

「錦湯」にしても、「スマート珈琲店」にしても、「柳小路と八兵衛明神」にしても、そんなふうに歩きながら拾い集めた妄想のタネである。

 そのタネを発芽させて、私なりの肥料をやって育てていったら、偽京都が毛深くムクムク膨らんで、『聖なる怠け者の冒険』になった。

 そういうわけで、もし小説の舞台を訪ねるなら、幻の偽京都を目指すこと。そのために必要なのは妄想力である。

『聖なる怠け者の冒険』では、膨れあがってどうしようもなくなった偽京都にオトシマエをつけるために、八兵衛明神にお出ましを願った。

 もし柳小路という路地がなく、八兵衛明神という神様がそこにいらっしゃらなければ、小説は終わらなかった。とはいえ、そのために八兵衛明神様の正体を好き勝手に妄想したのはいささかやりすぎであったと反省している。天罰で毛深くなってもしょうがない。

 というわけで、柳小路を通るたびに「本物の」八兵衛明神様に謝っている。

週刊朝日  2014年3月7日号