得意の英・仏・伊語に加え、ドイツ・スペイン・ロシア語も話す“国際派”。23日のソチ五輪閉会式にも出席する (c)朝日新聞社 @@写禁
得意の英・仏・伊語に加え、ドイツ・スペイン・ロシア語も話す“国際派”。23日のソチ五輪閉会式にも出席する (c)朝日新聞社 @@写禁

 2月9日の東京都知事選で圧勝した舛添要一氏(65)。7カ国語を操る自信家は、どんな人物なのか。元側近や友人らが素顔を語った。

 1948年に福岡県北九州市で生まれた舛添氏。県立八幡高校では陸上部に所属し、短距離選手としてインターハイにも出場したスポーツマンだった。

 恩師の柴田文寿さん(81)が当時を懐かしそうに語る。

「丸坊主で、井戸水を飲みながら日が暮れるまでグラウンドを走っていました。負けん気が強く、ラグビー部の試合に“助っ人”として出てもらったこともあります。成績はとにかく優秀。1学年600人いましたが、3年間トップだったと思います。女子生徒からの人気も凄くて、いろいろ恋愛相談にも乗りました(笑)」

 東大法学部では作家を目指すも、政治学者の道に。アメリカのホワイトハウスで安全保障を学んでいた81年、レーガン大統領の暗殺未遂事件が発生する。

「大混乱のハウス内部を見ながら、『政治は命がけ。政策を進めるには強い信念と覚悟が必要』と悟ったようです」(舛添氏の元同級生)

 東大助教授だった86年、11歳年下で大蔵官僚(当時)の片山さつき氏と2度目の結婚をする。だが、わずか2年3カ月で離婚

「片山さんは週刊誌でDV被害を訴えていましたが、舛添さんにとってもつらい結婚生活だったようです(苦笑)。決して多くは語りませんが、一度だけ『ヒステリックで気の強い女はこりごり』とグチるのを聞いたことがある。『彼女は仲間が少ないので政治家には不向き。官僚のままでよかったのに』とも言っていました」(民放スタッフ)

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