現在では倍率20倍が珍しくなく、「東の東大、西の宝塚」とも称される宝塚音楽学校。しかし、ジャーナリストの菊地正憲氏の調べによると創立当時の入試はかなり簡単だったようだ。

*  *  *

〈むかし むかし そのむかし 爺さまと 婆さまが あったとナ〉

 こんな長閑(のどか)さが漂う歌で始まる少女歌劇「ドンブラコ」が、1914(大正3)年4月1日、現在の兵庫県宝塚市内にあった「パラダイス劇場」で披露された。日本人なら誰もが知っている童話「桃太郎」を題材にした作品だ。

 演じたのは、その前年、つまり今からちょうど100年前に結成した15歳前後の少女16人から成る「宝塚唱歌隊(当時は宝塚少女歌劇養成会)」である。阪急電鉄の前身である箕面有馬電気軌道が、宝塚駅周辺に開設した温泉施設と遊園地への旅客誘致企画として養成し、翌春の初公演を迎えたのだった。この日は、「ドンブラコ」以外にも「浮れ達磨」などの演目が披露された。観覧料はしばらくは無料だった。

 実はこの唱歌隊こそ、今も連綿とスターが輩出する「宝塚歌劇団」(宝塚市)、さらにその舞台に立つためには必ず入学しなければならない養成学校「宝塚音楽学校」(同)のルーツにあたる。「ベルサイユのばら」や「風と共に去りぬ」に代表される、派手で豪華なステージで知られる伝統劇団は、あどけない少女たちによる純朴な童話劇からスタートしたのだった。

 現在の宝塚音楽学校は入試倍率が高く、「東大並み」と称されるほどの難関だ。ところが、創立時は、慌ただしく劇団結成が企図された様子がうかがえる。

 公益財団法人「阪急文化財団」の「池田文庫」(大阪府池田市)は、宝塚歌劇団の各種史料のほか、1918年に創刊し、現在も発行されている同歌劇団の機関誌「歌劇」を所蔵している。37 (昭和12) 年3月号を閲覧すると、宝塚の教官たちの座談会記事が載っていた。出席者の一人は、唱歌隊の入隊試験について、「入学試験などという大げさなものではなく、箕面電車の社員の知り合いの人で音楽に興味をもった娘さんに来てもらったのです」と記憶をひもといている。

 宝塚歌劇団が1964年に発行した『宝塚歌劇五十年史』には、「ドンブラコ」で主役の桃太郎役を演じた「1期生」高峰妙子の次のような回想も載っている。

「もともと好きな歌が歌えて、それでお金がいただけるというお誘いでしたから、有難や有難やと宝塚の試験をうけに出かけました。なんでも、宝塚は少女だけの唱歌隊ではない、婦人唱歌隊だという人があって“これは大変だ、子供っぽく見えては試験をうけることはできないかも知れぬ”というので、そのころ流行の束髪に結いあげて、キリリッと目を釣りあげた顔で、緊張して試験場へ入っていきました」

 この直後、2人の試験官を前にやさしい歌を歌ったところ、「明日から出て来なさい」と言われて、すぐに加入できたという。初の日給は25銭で、「いまでいえば、大学出のお給金と同じぐらいでしょう」と明かしている。今から思えば、高給の仕事にしてはかなり簡単な試験だったようだが、その後、高峰自身は「宝塚初の男役主演スター」として長く活躍することになった。

週刊朝日 2013年11月22日号