海に排水が流れたとき、人々の暮らしは一変した。6月に発売した写真集、『水俣1974-2013 水俣よサヨウナラ、コンニチワ』の著者・小柴一良が映した“日常”を振り返る。

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 1年もあれば水俣は撮れるだろうと考えていた。

 1974年の初夏、大阪を出発し本・水俣へ向かった。足掛け6年を現地で暮らした。その前年の73年に、熊本訴訟で原告が勝訴。人々の多くが「そっとしておいてほしい」という気持ちだっただろう。ジャーナリストの西村幹夫氏が言うように、当時、水俣周辺は補償金経済地域になりつつあり、カメラを向けるのが最も困難な時期であった。カネにまつわる親子・兄弟喧嘩、酒やギャンブル、異性問題――。見聞した以外にもトラブルがあったはずだ。いまの福島も同様のことが起きつつあるのではないかと心配している。

 当初は夢中で撮影を続けた。しかし、徐々に撮れなくなり、79年春、水俣を去った。以降、水俣から遠ざかっていたが、2006年に「水俣を見た7人の写真家たち」展への参加要請があり、悩んだ末、出展することにした。翌年“帰郷”し、28年ぶりに「水俣よ、コンニチワ」となった。昔、歩いていた人が車椅子の世話になっていた。今年7月の滞在中にも胎児性水俣病の母親2人が相次いで倒れた。

 10月9日から熊本で「水銀に関する水俣条約外交会議」が催される。56年の水俣病公式発見から半世紀以上が経過。環境省によれば認定患者は2275人(13年8月時点)、6万人以上が救済申請している(12年7月時点)。水俣はまだ終わらない。

週刊朝日 2013年10月18日号