米国占領下の日本で繰り広げられた、天皇の戦争責任をめぐるドラマを描いた映画「終戦のエンペラー」。この作品は今夏に公開されたが、実は64年前に同じ内容の映画が日米で企画され、頓挫していた。その秘話に迫る。

 まだ占領が続く1949年1月、すでに軍を退き帰国していたフェラーズに東京から一通の書簡が届いた。差出人はシュウ・タグチ・プロの田口修治社長である。田口は戦時中、日本ニュース映画社の海外局次長などを務め、戦後はGHQ民間情報教育局(CIE)などの記録映画を製作した人物だ。CIEとは文化面の民主化・非軍事化を担当する部署で、教育勅語廃止や天皇の人間宣言などを立案した。

 この書簡で田口は2年前、米国の雑誌が掲載したフェラーズの記事に触れ、「独立系のプロデューサーとして、あなたの記事を基にした映画を考えている」と製作許可を求めた。

 田口が言うのは、月刊誌「リーダーズ・ダイジェスト」の47年7月号に載った「降伏のために闘った天皇裕仁」という記事だった。2カ月後、同誌の日本語版にも掲載され、田口はこれを基にしたドキュメンタリー映画を考えていた。この記事でフェラーズは天皇を、戦時中から和平工作を考え、軍部を抑えて降伏を決断した勇気ある人物として描いた。

「陛下は、名目上日本国の首班として、形式的には勿論、臣下の指導者たちと共に戦争責任がある。しかしそれだからといって、敢然として狂信軍人の徒を威圧し、彼らの権力を奪い取り、たゞ意思の力によって遂に彼らに降伏を強要した一傀儡(ママ)君主の、この素晴らしい業蹟の意義は、そのために少しでも減殺されるものではない」(「リーダーズ・ダイジェスト 日本語版」47年9月号より)

 49年1月21日、ワシントン在住のフェラーズは田口に返事を出した。脚本やキャストを検閲する権利を有する、原作者の彼に適正な金額を支払うなどを条件に映画化を認めるという。そして同日、フェラーズは東京のあるGHQ将校にも書簡を送った。宛先はCIEのウッダール・グリーン大佐、大戦中に日本軍への心理作戦に従事した人物だ。フェラーズは、この映画が“平和時の心理作戦として極めて有効”と述べ、製作状況を監視するよう進言した。

 ここで重要なのは、フェラーズがこの映画を心理作戦と位置づけた事だ。終戦直後、米国内の天皇への見方は非常に厳しかった。真珠湾攻撃や日本軍の残虐行為から天皇訴追の声が強く、ギャラップ社の世論調査では3割が天皇処刑を支持したくらいだ。一方、マッカーサーとGHQは円滑な占領に天皇を利用したかった。だが開戦詔書が天皇の名で出された以上、何らかの理論武装が必要だ。そこで考え出されたのが、全ての責任を東條英機元首相らに押しつける戦略だった。GHQを訪ねた米内光政元首相に、フェラーズはこう語った。

「対策としては天皇が何等の罪のないことを日本人側から立証して呉れることが最も好都合である。其の為には近々開始される裁判(注・東京裁判)が最善の機会と思ふ。殊に其の裁判に於いて東條に全責任を負担せしめる様にすることだ。即ち東條に次のことを言はせて貰い度い。『開戦前の御前会議に於て仮令(たとえ)陛下が対米戦争に反対せられても自分は強引に戦争迄持って行く腹を既に決めて居た』と」(豊田隈雄『戦争裁判余録』より)

 これに米内元首相は全面的に同意した。強引な裁判の裏には天皇不起訴という日米共通の狙いがあった。結局、48年11月に東條らA級戦犯7名に死刑判決が下され、12月23日、絞首刑にされた。その後、日本は象徴天皇制の道を歩んでいく。

 だが天皇免責のためとは言え、フェラーズも東京裁判にかなり無理があるのは承知していたはずだ。また米国内の対日世論も依然厳しかった。田口への書簡でフェラーズは、映画の脚本に(1)日本を戦争に突入させ破滅させた軍部独裁を非難する、(2)日本を救うため軍国主義者に降伏を命じた天皇を評価する、などを最大限反映するよう求めた。そして日米での上映を想定した。

 ドキュメンタリーとフィクションの違いはあるものの、フェラーズが目指した映画は「終戦のエンペラー」とほぼ内容が重なる。それは日米両国への心理作戦でもあった。(ジャーナリスト 徳本栄一郎)

週刊朝日 2013年10月4日号