オバマ政権はシリアのアサド政権が化学兵器を使い、少なくとも1429人を殺害したと結論づける報告書を8月末、公表した。中東の北朝鮮=アサド独裁国家の恐怖政治の実態を、シリアを20年間みてきたジャーナリスト・黒井文太郎が暴く。

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 化学兵器攻撃は政府軍によるものであることは間違いないといっていいだろう。子どもを含む一般住民を化学兵器で殺害するなど、世界でも過去最悪の極悪非道な政権というしかない。

 しかし、筆者は当初から、アサド政権は独裁体制を守るためなら、どんな非道なことでも躊躇しない政権だと確信していた。それには個人的な理由があった。

 私事になるが、じつは筆者の元妻はダマスカス出身のシリア人である。親族に支配政党「バース党」の党員はおらず、政府機関の関係者もいない。多数派であるスンニ派に属するごく普通の家系で、シリアでは、秘密警察の監視下にある一般国民の側といっていい。筆者は元妻と結婚してからこの20年間、シリアを何度も訪問し、かの国の社会と、元妻の親族を通じて深い繋がりを持った。

 シリアではシリア人男性と外国人妻という例は珍しくないが、シリア人女性と外国人夫という例は非常に少ない。行くたびに空港で、別室に連行され、結婚の経緯や筆者の素性などを事細かに尋問された。

 筆者と元妻の親族は、秘密警察「アムン」(総合治安局)の徹底的な調査対象となった。アムンは公安専門機関で、アメリカあるいは日本政府のスパイとの嫌疑をかけられた。

 また、おそらくもうひとつの秘密警察である「ムハバラト」(総合情報局)の監視対象でもあったはずだが、ムハバラトは完全に裏の組織なので、どのような監視・調査を受けていたかは筆者にも詳細はよくわからない。また、筆者は当時、海外の紛争地取材を専門として、いわゆる戦場カメラマンをしていたため、自分の職業を「海外の風景などを撮るカメラマン」と説明していたが、メディア関係者ということでも警戒された。

 日本にいるときも、東京・乃木坂のシリア大使館に何度も呼び出された。紳士的な雰囲気ではあったが、筆者が何者であるか、さまざまな質問を受けた。筆者はとくに何も感じなかったが、同行した元妻は大使館内では、端でみてわかるほど緊張し、がくがくと霙えていた。一般のシリア人にとって、アサド政権の政府機関はそれほど恐ろしいのだ。ちなみに、当時筆者たちを担当した公使(後に代理大使になった)は、シリアで強大な権力を持つ特殊部隊司令官の実弟だった。

 本国の親族も、ダマスカスのアムン事務所に何度も呼ばれ、徹底的な尋問を受けた。シリアでは、国際結婚の最終承認を外務省や内務省ではなく、アムンが行うのだが、彼らが筆者の婚姻を最終的に認定したのは、シリア外務省が結婚届を受理してから10年も後のことだった。

 シリアでは秘密警察の目が街中に張り巡らされていた。筆者と元妻が日本語で会話していたとき、なにげなく「アサド」という単語を口にしたら、居合わせた義弟に「日本語でも絶対その名前を話すな」とよく注意されたものだ。

 シリアでは、どこでも大統領の写真が溢れていた。最初は先代のハーフェズ・アサド大統領と、その後継者となることが決まっていた長男のバーシル・アサドの写真。長男が1994年に交通事故死した後は、父アサドと次男のバシャール・アサドの写真である。露骨な個人崇拝の強制だった。個人崇拝、言論統制、国民の徹底監視、それに独裁政権の世襲に至るまで、シリアはまさに北朝鮮と同じだ。筆者は北朝鮮にも一度行ったことがあるが、シリアは北朝鮮の警察国家的な雰囲気に、アラブ特有の猥雑なエネルギーを足した感じに思えた。

 そんな国だから、2011年3 月に民衆デモが蜂起したとき、彼らの気持ちは痛いほどわかった。あの国で政権に異議を唱えるということが、どれほど危険を伴う行為かを知っている筆者からみると、立ち上がった人々の勇気は賞賛に値する。

 筆者はシリアにいる親族や友人たちとフェイスブックやスカイプで連絡を取り合い、民衆蜂起の経緯を日本からフォローし続けた。デモの主導グループとも知り合い、その中心人物のひとりとは、同年7月に隣国レバノンで直に会った。もちろん親族や友人の多くも、デモに加わったり、反体制活動の支援を行ったりした。

 義兄はアムンに1週間拘束された後、国外に逃れて反体制組織に加わった。義弟もアムンに逮捕され、4カ月も拷問を受けたが、親族が多額のワイロで釈放させ、国外に逃がした。だが、70歳代の叔父は街中を歩いていて政権側民兵のスナイパーに射殺され、叔母の姪にあたる女性は乗っていたミニバスが政府軍に銃撃されて、小学生の子ども2人ともども即死した。運よく犠牲者は出なかったものの、筆者がシリアに行くたびによくしてもらっていた叔母の自宅は、政府軍の砲撃で全壊した。筆者の親族が特別なのではない。シリアでは誰もが同じような目に遭っていた。

週刊朝日 2013年9月13日号