江戸幕府を倒幕させ、“近代日本建国”の立役者の一人となった西郷隆盛。その曾孫である陶芸家の西郷隆文氏は、隆盛時代からお世話になっている島津本家には、絶大な信用を置いているという。

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 流罪で奄美大島にいた西郷隆盛と、妻・愛加那(あいかな)との間にできた菊次郎が、私の祖父になります。父は京大で航空機の研究をしていたので、小さいころは京都でした。中学3年のとき、鹿児島に引っ越し、大学卒業まで住んでいました。鹿児島にいても、隆盛のひ孫だということは意識しませんでしたね。高校生くらいのときは、あえて考えないようにしていたのかな。

 意識したのは20歳になる直前のこと。パチンコ屋でチンピラとケンカして殴られ、ひどい顔をして帰ったんです。そうしたらおふくろにこう言われました。

「二十歳(はたち)をすぎて悪さをすると新聞に名前が載るよ」

 西郷という名前を継いで、これはまずいなと。それから悪いことはしていません。

 大学卒業後は東京のアパレルメーカーに就職しました。25歳で帰郷し、陶芸家になるべく地元の窯元で修業をしました。30歳になり、独立のため窯を構える場所を探していたときのことです。おふくろの母であるばあ様がこう言いました。

「日置へ行たみゃんせ(行ってみなさい)。墓守どんの小屋があっはずじゃ」

 日置島津家の菩提(ぼだい)寺である鹿児島県日置市の大乗寺跡のことでした。行くと確かに古い小屋がある。ここに私の仕事場である「日置南洲窯」を開きました。

 おふくろは日置島津家から西郷家へ嫁に来たんです。関ケ原の合戦で有名な「敵中突破」で帰還した、義弘公の弟・歳久公を祖とする家系です。先代の16代当主がおふくろの弟です。

 島津本家の現当主は、32代の修久(のぶひさ)先生です。たまにお会いしますが、語りや立ち居振る舞い、すべてが殿様にしか見えない。「さん」付けでは私はとても呼べず、修久先生のほか、修久様か修久公と呼んでいます。もう普通の敬意を通り越している。「腹を切れ」と言われたら切るかもしれません。それくらい信頼しています。

 宗主であることと、隆盛時代からお世話になっているというのもある。薩摩気質なんでしょうね。一度信用した上の人を絶対に裏切らないし、その人の言うことしか聞かない。そして、上の人は出世すると下を引っぱり上げる。これが「薩摩の芋づる」です。

 隆盛が言う「敬天愛人」の精神は菊次郎にも引き継がれていました。台湾で都守を務めたとき、“西郷堤防”と名づけられた堤を造りました。洪水に悩んでいた人々に感謝され、現地に菊次郎の徳政をたたえる石碑があります。

 もうひとつ、父が話してくれた隆盛の言葉があります。

「迷ったときは、損するか得するかではなく、善いか悪いかで決めろ。そうすれば、おのずと答えは出る」

 これだけは私も守っています。

週刊朝日  2013年8月30日号