戦後直後の週刊朝日 原爆の凄惨さは伝えず 〈週刊朝日〉|AERA dot. (アエラドット)

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戦後直後の週刊朝日 原爆の凄惨さは伝えず

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週刊朝日 昭和20年8月12日 18日号 表紙

週刊朝日 昭和20年8月12日 18日号 表紙

 創刊91年の「週刊朝日」は、太平洋戦争の戦中・戦後を通じて休まず発行を続けてきた。終戦を迎えたその時、週刊朝日は何を報じていたのか。間もなく終戦記念日を迎えるこの時期に、その一部を紹介する。

 戦後初めて発行した「八月十二日・十九日号」は、記事の一部に「八月廿日(はつか)」の日付が入っている。発行日より数日遅れの発売だったようだ。表紙を入れて32ぺージと、力の入った誌面構成だった。価格は60銭。今回の「復刻版」は、このうち13ページ分を再録した。

 まず表紙は、それまでの戦闘機や軍艦といった絵柄から一転、「婦女農耕図」となった。描いたのは彫刻や絵画で活躍した石井鶴三(つるぞう)。吉川英治の『宮本武蔵』(朝日新聞連載)の挿絵なども手がけていた。

 最初のページは、玉音放送として知られる終戦の「詔書」で、次ページのコラムのタイトルは「善敗者として發足せよ」とある。

 筆者は朝日新聞の名物記者だった鈴木文四朗。「文史郎」はペンネームで、「善敗者は悪勝者よりも、精神的に勝つて居り、道徳的に立ちまさつた者である。同時に悪勝者ほど情けなく、醜い者はない」としている。「グッド・ルーザー」となろうという。

「戦争は勢に乗りてトコトンまで進めて行くのは容易で、敗戦の場合、これを止める方が何十倍何百倍の勇気を要する」

 と、終戦に努力した鈴木貫太郎首相を評価しつつ、国の再建については、「大きな意味での教育こそ、根本の根本であり、新日本家屋の礎石であらう」と、戦後の日本の道行きを示している。

 長くパリ特派員だった重徳泗水(来助)記者が書いた記事のタイトルは、「ポツダム宣言の進路 忍苦よく皇國日本再建へ邁進せん」。

 記事のなかでは、ポツダム宣言の内容を紹介しながら、敗戦によって日本の領土がどこまでになるかということに言及している。ポツダム宣言(45年7月)では、日本の主権が及ぶのは、「本州、北海道、九州および四国ならびに吾等の決定する諸小島」と示されていた。

 その前のカイロ宣言(43年12月)では、満州、台湾、朝鮮、さらに日本が占領してきた太平洋の島々について言及している。ただし、南樺太と沖縄はカイロ宣言にも言及されていないため、「『われらの決定する諸小島』のなかに入るものであるかどうか」と、その後の沖縄問題や領土問題を考えれば、やや暢気な心配をしている。

 官邸取材が多かった有竹修二記者の「東久邇宮(ひがしくにのみや)内閣成立す」は、近衛文麿の無任所国務大臣での入閣に注目している。

「公は、今日いはゆる重臣中の重臣(略)、公は、事実上副総理の任にあるものと解される」

 近衛はその後、GHQのマッカーサー最高司令官に会い、新憲法制定のために動きはじめる。新しい時代でも政治的に活躍することを自負していたが、A級戦犯に指定され、12月16日に服毒自殺を遂げた。

 終戦2日後に成立した東久邇宮内閣については、「時局の難たる先古未曾有であるといふの外はない」と書いた。その心配通り、内閣はGHQの指令に悩みつつ、10月9日に在職54日で倒れた。混乱のなか、最も短命な内閣として歴史に名を残すことになった。

 “終戦号”の10~12ページに、原爆についての解説記事「戦慄の原子爆弾」がある。大阪大学の浅田常三郎博士に取材した。浅田博士は原爆投下直後の広島に入り、現地調査をした物理学者だ。

 原爆報道は45年9月19日にGHQが発した「プレスコード」(報道の統制)により、姿を消していく。終戦前は日本軍による検閲があり、その間隙(かんげき)をついた報道だった。とはいえ、記事には被爆者や破壊された市街の描写は一切ない。新型爆弾の仕組みに加え、原子や放射能とは何かという解説に終始している。

 広島に投下された原爆の構造については、「ウラニウムを水に混ぜて分裂によつて生じたエネルギーを水に吸収させた」と推測している。

 実際の広島型原爆は、ウランに中性子を衝突させ、ごく短時間に核分裂の連鎖反応を起こすことで膨大なエネルギーを引き出した。投下から2週間ほどのこの時期、日本側の分析は道半ばだった。

週刊朝日  2013年8月16・23日号


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