僧でありながら結婚し、子をもうけ、僧でもなく俗人でもない「非僧非俗」の道を生きた親鸞(しんらん)。悪人さえも救われるという教えを説く法然の門下に入るなど、その考えは独特だ。そんな親鸞の教えから、新たな“結婚観”を探った。

 親鸞が結婚にふみきったきっかけは「女犯偈(にょぼんげ)」という夢のお告げだと言われる。「犯」という文字の理由について、真宗大谷派因速寺住職の武田定光さんはこう話す。

「結婚とは、しなくてもよい苦労や苦しみを相手に押し付ける、つまり犯し合いなのです。男が女に、女が男に対しても、相手の人生でしなくていい苦労をさせている加害者の立場にある、その自覚をもっているかどうかなのです。それが、親鸞の言葉でいうと『悪人』ということにもつながるのでしょう。自分こそ悪人だと自覚していることが救いにつながるのです」

 そんな教えも踏まえ、武田さんには、結婚する人に必ず贈る三カ条がある。

(1)結婚とは別れを約束する儀式である。
(2)結婚とは犯罪である。
(3)結婚とは、過去形で語ることを許さない何かである。

「(1)は結婚だけでなく、人との出会いは必ず別れが約束されている。そのことを忘れてはいけないということ。(3)は、私自身が『結婚とは何か』をいまだに探し求めているためです。なぜ結婚するのか、その答えを見いだせないでおり、いまだ結婚していないという地平にしか立てないのです」

 真宗大谷派本龍寺住職で親鸞仏教センター所長の本多弘之さんも、結婚についてこう語る。

「夫婦は“所有関係”ではなく、互いに因縁があって一緒に生活するということ。いろんな愛があるのでしょうけど、自分の都合のいいところだけをとろうとしたり、自分を犠牲にして相手に尽くそうとしたり、そういうのは必ず破れるのです。だから互いにゆるし合い、敬い、愛し合おうと」

 親鸞は、妻に対して「観音菩薩の化身」として接していたという。そして妻も、後に娘に宛てた手紙によると、親鸞を観音菩薩とみていたというのだ。

「自分のなかにあるおぞましさを鏡のように照らし出してくださる方として、夫や妻を観音と擬人化している。結婚というのは、赤の他人が出会い、身内以上に親しい、一番近いところで生活する。そのときに『浮気してやろう』だとか、夫婦げんかだとか、いろんな煩悩が起きる。そのゴタゴタによって自分のなかの悪人性、相手を傷つけるような気持ちなどが見えてくる。相手はそれを見せてくださっている観音菩薩だということです。結果論ですが、恐らく親鸞は結婚することによって初めて、自分を学ぶことができた。人間というものがどういう生き物か明確にできた。そうして互いに鏡にしていたのではないでしょうか」(武田さん)

週刊朝日 2013年8月2日号