1969年から86年までの間、中島みゆき、チャゲ&飛鳥、佐野元春など時代を代表するアーティストを輩出した「ポプコン」(ヤマハポピュラーソングコンテスト)。その礎を築いた4組のアーティスト、八神純子、渡辺真知子、NSP(中村貴之、平賀和人)、因幡晃が約40年ぶりに一堂に集い、ポプコンの思い出を熱く、語り尽くした。

――ポプコンは観客席が地区別に分かれ、応援合戦があったりしたそうですね。

因幡:自分の地域からスターを出したい!っていうすごい熱気があって、応援する側の戦いでもあった。本当に甲子園みたいなもんでしたね。

――地区を代表し、背負っていたわけですね。

因幡:そう。前に(中島)みゆきが「私ね、『時代』が生まれたときに、これは行く!って思ったのよ」と言ってたけど、根性が据わってたね。俺なんかプロになるつもりはなかった。ただ、魅力的だったのはシングル盤を作ってもらえることでした。

八神:77年第14回大会に世良公則&ツイストが出たとき、私は大石吾朗さんといっしょに司会をやっていて、「すごいのが出てきた!」と思った。彼らは最初からスターで、その頃からポプコンはスターの登竜門として華々しくなったのよ。

因幡:その前の俺らは、田舎の子の感性で歌を作ってたから、ソッとしておいてもらえた。曲作りのために田舎へ帰ることも多く、東京での住まいは渋谷の東武ホテル。夜中に閑散としたロビーで、みゆきとか、みんなでいっしょに曲を書いたり、NHKの前で遊んだりしたね。

――デビューして、突然ヒットして、戸惑いは?

因幡:とうぜん、天狗になってましたよ。
渡辺:私は理想より上に行っちゃった。音楽がライフワークになればいいと思っていたのが、パンパカパーンと、とんでもないところに行った。曲自体も自分が思うより高く評価され、その後が苦しかったですね。

中村:そのへんの話は、NSPは無縁です(笑い)。就職試験に3人揃って落ちて、「どうしようか?」と言ってるときにヤマハから「東京に出てこないか?」という誘いがあった。1年間で207カ所をツアーでまわり、そのうちに火がついたんです。

平賀:ダメになった場合に備えて、ヤマハに正社員として雇用してもらえるよう、約束もしてました(笑い)。今、僕は(別の会社の)会社員で、週末だけ歌うシンガー・ソング・サラリーマンになりました。

因幡:でも、すべてが分かってくるのはずっと後だったね。俺なんてさ、「わかって下さい」の次が「別涙(わかれ)」で、暗~い歌ばかり。望まれるのはそういうものだけど、もっと明るい歌を作りたいなとか、色んなジレンマがあった。

週刊朝日  2013年7月26日号