1982年に開場した東京・多摩市の「一本杉球場」は江夏豊にとって思い出の地だ。当時を本人が振り返る。

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 28年前の「たった一人の引退式」当日、多摩ニュータウンの丘陵を走る車の中で、江夏豊はこう思っていた。「エライとこに連れていくんやな。まるでゴルフ場に行くみたいや。ほんまに、球場なんかあるんかいな」。

 到着してみると、あふれんばかりの人、人、人。「あんだけのお客さんが集まってくれたっちゅうのは、驚きというか、意外というか。まあ、ありがたい気持ちになったよね」。

 あの日を思い出す。控室でたばこをくゆらせた後、「やーれ、やれ」と、マウンドへ向かった。

 少年野球の試合にリリーフで登板するという形をとって、マウンドに上がる。小学生1人に投げた後、球界の仲間が次々に打席に立った。落合博満、高橋慶彦、福本豊、山本浩二、大杉勝男、斎藤明夫、江藤慎一。阪神時代にバッテリーを組んだ辻恭彦のミットめがけ、計27球を投げた。

 引退式を主催した「Number」誌の初代編集長だった岡崎満義は言う。「もともと甲子園を借りて、江夏-田淵幸一のバッテリー対王貞治さんで、27球の勝負をしてもらいたいと考えていたんです。リリーフをやるようになってから、江夏さんは一人1球で仕留めるのが投手の理想と言ってましたので、そのペースで1試合を投げ切るイメージで。ただ、あの日27球で終わったのが偶然だったのかどうか、覚えてませんねえ」。

 仲間の手で巨体が宙を舞う。江夏の両目が潤んでいた。マウンド上で挨拶(あいさつ)し、観客席のファンと握手しながら、ゆっくりとグラウンドを一周した。

 引退式の1カ月後、36歳の江夏は大リーグ挑戦のために海を渡る。そして夢は破れ、完全引退となった。久々に一本杉球場を訪れた日、28年前の引退式に駆け付けたという初老の男性がたまたま江夏を見かけ、当時の思い出を熱く語りかけてきた。江夏が語る。

「いまでもあんなにちゃんと覚えてくれてるなんてな。自分では何もできず、周りが全部やってくれて、それに乗っかっただけの一日。まあ、本当に手作りのような一日やったよね。『たった一人の引退式』というけど、決して一人だったとは思わない。あれだけのお客さんと友人が来てくれて、みんなが思い出をつくってくれた一日だったんだから」

 今年4月には、思いもよらぬ再会もあった。神奈川県内のゴルフ場を訪れると、わざわざ総支配人が挨拶に来てくれた。聞けばあの引退式の日、広告会社の社員だった彼は、球場で裏方として走りまわっていたのだという。

「いや、ほんまにビックリしたな。野球をやってたおかげでいろんな人と知り合えた。これが野球人生一番の財産やな。俺のことを一匹狼(おおかみ)と呼ぶ人がいるけど、決してそんなことないよ」

 江夏豊という野球選手にとって、球場とはどんな場所だったのだろうか。「砦(とりで)であり、いちばん休まる場所だと思う。いま、野球評論家として、キャンプでいろんな球場に行くやろ。もちろん形状や雰囲気はすべて違う。でもな、匂いだけは同じなんやな。たくさん思い出の球場を持たせてもらった。一本杉球場も、その一つやな。幸せやで」。

 あの引退式で、江夏は阪神のユニホームに身を包んだ。自分の中で、ほかに選択肢はなかったのだという。「高校出の18歳で入って27歳までの9年か。あれが俺の青春のすべてやからな」。

 ならば、本当は、引退試合も甲子園でやりたかったのでは? 「あのころにもう、十分やったから。ええよ、もう」。なにか、言葉をのみ込んだようにも思えた。しばらくしてから、こう続けた。「ただ、ぜいたくを言わせてもらえるなら、俺の骨は甲子園のマウンドにまいてもらいたい。許してもらえるならな」。

 江夏豊、人生最後の願いである。

週刊朝日 2013年6月28日号