被害者意識、罪悪感……。親の介護が必要になった瞬間から、身内に重くのしかかってくる感情である。しかも、自分の生き方が定まらない若いうちに、その選択を迫られたら――。でも希望はきっとある。数少ないかもしれないが、成功例を紹介する。

*  *  *

 千葉芙美さん(33)の母(65)が筋萎縮性側索硬化症(ALS)と診断されたのは、約10年前、芙美さんがカナダに留学して8カ月が経ったころだった。

 ALSは、筋肉が衰えていく病気で、いずれ体を動かすことや、食事ができなくなり、病状が進行すれば呼吸もできなくなる。その一方で、五感、知能、内臓機能などは通常のまま保たれることが多い。効果的な治療法はなく、難病指定されている。

 1年間の留学を終え、2005年5月に芙美さんが自宅のある仙台に戻ったときから、介護生活はスタートした。芙美さんは25歳、母は58歳。芙美さんは振り返る。

「最初は戸惑うことも多く、ストレスからか、円形脱毛症になったこともありました」

 働き盛りの若者の介護は、自分の将来や夢を犠牲にする可能性が高いことを、週刊朝日4月19日号ですでにお伝えした。芙美さんもまさに人生これから、という矢先の介護である。

 介護するにあたり、二つの問題にぶつかった。一つは、在宅介護にもかかわらず、ヘルパーと訪問看護師が日に2時間ずつしか入っていないこと。時間に余裕のあるときは2歳違いの姉が手伝ってくれたが、あまりあてにはできない。

 もう一つは、母が呼吸器の装着を拒否していたことだ。ALSで呼吸器をつけないということは、死を意味する。しかし、呼吸器をつければ、たんの吸引などで24時間介護が必要となる。当然、世話をする家族の負担は大きい。

「娘たちの人生を犠牲にしたくないからと、母は呼吸器を拒否していたのですが、自分の命をあきらめる“言い訳”に使われていると思って。そういうこと全部抜きにして、母がどうしたいかを考えてほしかった」

 とにかく情報が欲しい。まず芙美さんがやったことは、ヘルパー2級の資格の取得だ。それと並行して、介護のブログをつけ始め、そのアドレスをALSに関するウェブの掲示板に貼っていった。

 間もなく、ブログを読んだ人からコメントが来るようになり、つながりができた。そこでその後の大きな支えとなる人と出会う。

 ALSの母親を看取った体験を綴った『逝かない身体』で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した作家で、日本ALS協会理事でもある川口有美子さんだ。川口さんはこう言った。

「お母さんの命と、自分の将来、お姉さんの将来、全部あきらめてはいけない」

 そして、川口さんから、1人の女性を紹介されることになる。やはりALS患者の橋本操(みさお)さん(60)だ。芙美さんは橋本さんの自宅へ行って驚いた。橋本さんは「24時間他人介護」の態勢を整え、家族の負担を少なく抑えていた。部屋にはSMAPのポスターが貼られ、スヌーピーのグッズがあふれている。

「こうやればいいんだ!」

 芙美さんは決心し、帰るとすぐ母に告げた。「娘の人生を犠牲にしないなら、呼吸器をつけるんだよね。お母さん、呼吸器をつけよう」。

 橋本さんの暮らしぶりを聞き、母も希望が持てたのかもしれない。その年の秋、ついに母は呼吸器をつけた。しかし、そこで芙美さんを待っていたのは、20分おきのたんの吸引だった。

 当時、介護事業所によっては、たんの吸引を引き受けたり、引き受けなかったりしていたため、必ずしも任せられるヘルパーが派遣されるわけではなかった。結局、芙美さんが一手に引き受けることになり、まともな食事も取れず、眠ることもできない日々が続いた。

 これはおかしい。芙美さんは動いた。まず、ケアマネジャーを知識の豊富なベテランに代えた。すぐにたんの吸引ができるヘルパーがやってくるようになった。そして、新しいケアマネジャーは、介護保険、自立支援サービス、全身性障害者等指名制介護助成など、使える公的サービスをすべて使い、朝7時から夜の7時ごろまで、他人の手で介護できる態勢を整えてくれたのだ。

週刊朝日 2013年4月26日号