祖父が呉服屋、母が洋装店を営む家の次女として生まれたファッションデザイナーのコシノジュンコさん。文化服装学院を卒業し、日本が高度経済成長期で活気にあふれていた時代、コシノさんの仕事はすべて遊びから始まっていたという。

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 仕事はすべて遊びから始まりました。冬は新潟の岩原スキーロッジ、夏は茅ケ崎のパシフィックホテルが社交場。このふたつは加山雄三さんの親族が経営していて、そうそうたる顔ぶれが集まっていましたね。東京でも戸川昌子さんの「青い部屋」をはじめ、人が集まる酒場がいくつかあって、そこで多くの才能ある人と知り合いになりました。それで「今度、洋服作って!」って頼まれたりして。

 グループサウンズの衣装を作ったのもそんな流れ。布施明さんと知り合いになって、彼の衣装を作ったんです。それを見たナベプロの渡邊美佐さんが、「それ、いいわね」となり、ザ・タイガースの衣装を手がけることになりました。1970年の大阪万博では、ペプシコーラ館、タカラ館などのユニホームを作りました。これも遊びを通じて堺屋太一さんや黒川紀章さんらと知り合い生まれた仕事です。

 私、営業ってしたことがないんです。遊びで出会った人から、「こんなことしてみない?」と誘われて、面白いなと思ったら躊躇せずにどんどん飛び込んでいっちゃう。だから、遊びが営業といえるかもしれませんね。若い人たちによく言うんです。まじめなのもいいけれど、遊ぶことも重要よって。ただし、遊びに行くところは才能ある人が集まるかっこいいところじゃないとダメ。そこを見極めないと、ただの飲んだくれになっちゃいますから。

※週刊朝日 2012年9月14日号