組織力や資金力のある日本の「3大財閥」である「三菱」「住友」「三井」。彼らにはそれぞれに独自のカラーがある。それは戦後、GHQ(連合国軍総司令部)の占領政策に基づいて解体された際にも違いとなって現れた。

 三菱では当初、4代目社長の岩崎小弥太が三菱本社の解散に反対していた。小弥太は1945年12月、解散から約1カ月で世を去るが、病床でこんなメモを残した。

〈三菱に属したる各事業は将来とも従来の三菱式精神をもって経営せらるることは疑いを抱かない。(中略)我等の精神的つながりは連合軍も如何(いかん)ともし難いことと思う〉

 これが幹部への別れの言葉となった。

「残された三菱の幹部は、グループ企業を分散させてはいけないと考えた。社員も一括採用だったので、戦後、再結集しやすい土壌があった」(『日本の15大財閥』〈平凡社新書〉の著者・菊地浩之氏)

 住友では、1877年に初代総理事となった広瀬宰平が住友家法で、住友家の家長について、「君臨すれども統治せず」と定めていた。本社の議決権の過半数は経営者が握っており、住友家と事業は分離していたのだ。

 このときから精神的な支柱になっていたのが住友の祖・政友の書状「文殊院旨意書」(もんじゅいんしいがき)をもとにした「住友精神」で、これが再結集の軸になったとされる。

「組織の三菱」と「結束の住友」は、経緯が似ている。

 しかし、三井は様相が異なる。「人の三井」だけに、

「共有する哲学やビジョンは、あるのかな……」(三井系企業の財界人)
 
 精神よりも人が伝統をつなぐ体質なのだろう。これが弱みになることもあった。三井物産は解散後、かつての社員が起こした会社が200社以上にも及び、大合同の決定が三菱商事に4年遅れた。

※週刊朝日 2012年6月22日号