ヒゲの殿下と親しまれた寛仁さまが、16回にも及ぶがんに伴う手術の末、破天荒な生涯の幕を閉じた。66歳だった。福祉の「現場監督」を自任し、酒とおなごを愛したダンディーな皇族は、スポーツマンやDJなどいくつもの顔を持っていた。発言と知人の証言で生涯を振り返る。

 大学生のときはアイビー・ルックに身を包み、女子学生に騒がれた。75年10月、ニッポン放送のラジオ番組「オールナイトニッポン」でDJを務めたときには、

「ぼくはいま29歳で、これまでに5回(結婚)したい女がいた」「いちばん初めはぼくが18のとき」「ぼくは確かにもてると思うし、実績もある」

 と明かしている。

 一方で、勉強はもう一つだった。75年11月21日号の週刊朝日に掲載された黒柳徹子さんとの対談では、

「ぼくは徹底していて、やらないといったら全然やらないんだ。前の日に本も見ないわけ。カンニングが嫌いでね。いくら座ってたって書けねえから、(試験会場を)出てきちゃうんだ」

 と語った。

 70年には、札幌冬季五輪の組織委員会事務局で4万1700円の月給をもらいながら、1年半にわたって「サラリーマン皇族」になった。寛仁さまと取材を通じて付き合いを続けたノンフィクション作家の工藤美代子さんはこのとき、札幌五輪でコンパニオンを務めていたという。

「コンパニオンや事務局職員の若い女の子たちは、『プリンスとお茶が飲めたら将来は妃殿下よ』とこぞって殿下を狙っていました。『殿下とデートをした』とはしゃいでいたコンパニオンの女の子もいましたね」

 30年後、寛仁さまと再会した工藤さんが当時の話をすると、寛仁さまは慌ててこう否定したという。

「誓ってもいい。すすきので女遊びはしたが、コンパニオンの子には手を出していない」

※週刊朝日 2012年6月22日号