津波で甚大な被害を受けた岩手県下閉伊郡山田町。ここには7割の家が全半壊した低地の〈田の浜〉、あまり被害のなかった高台の〈山内〉など、被害状況の異なる地区が存在する。その相違から読み取れることは何だろうか。ノンフィクション作家の吉岡忍氏は語る。

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 まず、もともと高台にあって、ほとんど被害のなかった山内地区である。じつは、ここには昔からの言い伝えが残っていた。話は、いっきに1300年と少し前にさかのぼる。「大化の改新」が行われた飛鳥時代の末、大和国に役行者(えんのぎょうじゃ)と称する修験者がいた(役小角ともいう)。当代有数の物知りであっただけでなく、古来の山岳信仰と渡来したばかりの仏教とを混ぜ合わせた呪術を得意とし、神や鬼を手足のように使って奇跡をなし、民草を驚かせたという人物で、『日本霊異記』にも登場する。

 時の朝廷はこの異能を怖れ、母親を人質にして彼を捕まえ、伊豆大島への流刑にしてしまった。その間にも役行者は島で遊び、富士山まで飛んで戯れたというから、相当の超能力者だったらしい。

 さて、おそらくはこの流刑中のことと思われるが、役行者はなぜか船越の浜に姿を現した。以下は日本の地震学の先駆者、今村明恒の『地震漫談 役小角と津浪除け』(1933年)からの引用である。

「(役行者は船越の)里人を集めて数々の不思議を示し、後戒めて言ふには、卿等の村は向ふの丘の上に建てよ、決して此の浜に建ててはならない。若し此戒を守らなかったら、災害立ちどころに至るであろうと。行者の奇蹟に魅せられた村人は能く其教を守り、爾来千二百年敢へて之に叛く様な事をしなかった」

 役行者が「向ふの丘の上」と指示した場所こそ、山内地区のことだった。海辺に暮らしていた人々は、役行者の戒めに従って千数百年の昔に高台に移り住み、その後度重なった津波の災禍に遭わずにすんだのだった。

※週刊朝日 2012年3月16日号