1923(大正12)年9月1日。関東を襲った大地震は、10万5千人の命を奪い、被害額は45億円に達した。その前年に創刊された「週刊朝日」。関東大震災の様子をどのように伝えていたのであろうか。

 震災1カ月後に発行された週刊朝日(9月30日発行号)の表紙を飾ったのは、一人の迷子の姿だった。縦25.5センチ×横15センチ。誌面いっぱいに引き伸ばされた男児の写真には、こんな説明が添えられていた。

〈東京府立一中の罹災者(りさいしゃ)收容所ではこの子を金ちやんと呼んでゐる。ことし四つで本名は三郎?といふらしいがどこの誰の子だか今に判らない。頑是(がんぜ)ない金ちやんは毎日々々「おつぱいおくれおいもおくれ」を繰り返してゐる〉

 9月中に警視庁に保護された孤児・迷子の数は1千人を超えていたという。

 10月7日までに写真集「大震災写真画報」を臨時増刊として発行。記者が撮った90枚を3集にまとめたものだが、客が店先で奪い合うほどで、全3集で100万部を売り上げた。

 このさなかに思いがけない出来事が起きた。冒頭で紹介した迷子の身元が、「表紙」をきっかけに判明したのだ。その一部始終が10月28日発行号に紹介された。

 金ちゃんと呼ばれた男児は、名を聞かれると「チャブレ」と答えて三郎らしいと思われていたが、そのとおり、本名は菅谷三郎だった。姉の春江と珠江は京都で暮らしていたため難を逃れたが、兄2人と妹は東京・本所で両親とともに死亡した。

 父の勤め先の宝石商店主、依田忠治郎さんは、〈三郎さんの死骸(しがい)だけは方法を盡(つく)して捜しても出て來なかった〉と不思議に思いながらも一家の葬式を済ませたそうだ。

 そんな折、姉の珠江が通う第二高等女学校で、作文の授業があった。課題は、週刊朝日の「迷子の金ちゃん」の表紙についてだった。教師が選んだ理由は不明だが、震災を受けた日本の人たちの心を揺さぶったのは間違いないだろう。

 珠江は授業でその表紙を初めて見て、弟の三郎に生き写しだと驚き長女に相談した。ちょうど京阪方面に来ていた依田さんが大阪朝日本社を訪ね、警視庁に連絡して、2カ月ぶりの再会を果たせたのだという。

 親族たちとの再会を告げる記事は、こう結ばれた。

〈金ちやんはこれから其姉さん達や周囲の人々の温かい手に剛(つよ)く健(すこや)かに育つてゆくでせう〉

※週刊朝日 2012年3月9日号