1923(大正12)年9月1日に関東を直撃したM7.9の大地震、関東大震災。直後に起きた火災旋風で44万7千戸もの家屋が全焼した。図書館、書店、博物館も燃え尽きた。多くの人命と財産を奪った最大の国難を、当時の人たちはどう克服しようとしたのだろうか。

 地震から3週間たった「週刊朝日」11月10日発行号には、東京朝日新聞社調査部長で週刊朝日の編集を任されていた杉村楚人冠が寄稿している。杉村は当時、随筆家としても活躍していたが、地震の前年、長男を病気で亡くし、震災で二男と三男を同時に失った。家が壊れ、火事で焼かれた。その体験と心境をこう綴っている。

〈子を失つて哀しくない親といふものが、世の中にあらうか。哀しむのは自然の親心である。斯ういふ親心はどういふ人にもある。なべて世の親といふ親は、ことごとくこの親心をもつて居る〉

 亡くなった二男と三男は地震当時、隣同士の別室にいた。ところが、三男が二男の部屋へ逃げ出してきたか、二男が三男の部屋に行って担いできたのかはわからないが、2人は二男の部屋で倒れていた。

 その事実を知った杉村は、こんな言葉で随筆を終えている。

〈私は哀しい中にも言ふべからざる快さを感じた。嗚呼二人はよく仲よく一所に死んで呉れた〉

 家族と死に別れた人が多い中、遺体から何を感じるのか。当時の読者に伝えたものも大きかったのだろう。そのことは、現代でも変わらない。

週刊朝日 2012年2月24日号