1923(大正12)年9月1日、午前11時58分。「週刊朝日」(前身「旬刊朝日」)の創刊から約1年半後、未曽有の大地震が起きた。震源は相模湾沖で、マグニチュードは7.9。10万5千人が犠牲となったこの大惨事を、当時の週刊朝日はどう伝えたのか。先人たちは何を考え、どう行動したのか。当時の紙面から当時の息吹を紹介したい。

 週刊朝日は当時、大阪朝日新聞社(大阪市西区)に編集長がいて、東京朝日新聞社(東京市京橋区=現在の東京都中央区)に編纂事務を委嘱する形で編集されていた。東京の社屋は壊滅したが、大阪で印刷していたため、週刊朝日は震災後も予定通りに発行された。目次をめくると、編集部の言葉が掲載されている。

〈地妖と云はうか、天變(てんへん)と云はうか、大地怒ると云はうか、總ては言語の外である。一切は恐るべき事實なのだ。私達は災害の前に、唯慴伏(しょうふく)するのみである。(中略)けれども、徒(いたず)らに嘆いてばかりはゐられない。お互ひに相扶(あいたす)け、凡(あら)ゆるものの恢復に努めなくてはならぬ〉

 鉄道や電話、電報が途絶えているなか、記者はどんな手段で報道したのか。

 独身者を中心に男性記者9人が、陸路で、海路で、競うように大阪へ出発した。一番先に到着したのが福馬謙造だった。亀裂の生じた道に板を渡して自動車を走らせ、橋が落ちた川を泳ぎ、ずぶぬれで山を歩き、豚が積まれた貨物列車に乗り......大阪まで59時間かかったという。

 福馬は道すがら目にした被災者の様子を綴った。

〈自動車を驅(か)つて大阪に向ふべく先づ避難民の絡繹(らくえき)として斷えず品川街道を大森まで來たが村井銀行品川支店が街路に横はつて倒れて人間一人やつとしか通れない。その倒れた建物の下には十七八の若い娘がまだ蟲の息で助けを求めてゐて滿街凄慘の氣ただよふ予等は直に引返して新宿街道に向つた〉

 福馬の記述は続く。

 府中に着くと、「今夜十二時には揺り返しが来る」という噂で、竹藪や道の真ん中に蚊帳を吊った被災者が震えていた。平塚に向かう途中では「九歳の男の子が此の屋根の下にいるんです貴下(あなた)出して下さい」と泣いて懇願された。

 福馬は他の記者2人と行動をともにしていたが、一人は自分の家を見に行き、もう一人とは空腹が原因で口論が絶えず、結局は3人がばらばらの行動になったとも記している。

※週刊朝日 2012年2月17日号