民公連携につながる政治の原点と「新党構想」

鈴木毅週刊朝日
 与野党間で、ようやく大震災の復興関連予算を盛り込んだ「第3次補正予算案」成立の見通しが立った11月7日、民主党と公明党の"距離感"を巡って、ある興味深い動きがあった。
 野田政権が同日に予定していた、外務省出身の高野博師・元公明党参院議員の内閣官房参与(外交政策担当)への起用を先送りしたのだ。「ねじれ国会」の下で公明党とのパイプ強化を狙った"妙手"が、逆に公明党側の猛反発を買ってしまったからだった。

〈公明幹部は、菅直人首相(当時)が自民党の浜田和幸参院議員を政務官に引き抜いたことを引き合いに「政権側が公明党との距離短縮を狙っているのだとしたら愚の骨頂。浜田問題の公明版だ」と激怒した。支持母体の創価学会幹部も「一気に冷めた。民主党政権は肝心なところで手法を間違える」と批判を強めていた〉(8日付朝日新聞)

 一触即発の様相である。もっとも、これは表面的な反応でしかない。創価学会関係者がこう明かす。

「『公明党が激怒』といっても、これはもう収束しましたよ(笑い)。というのも、実は高野さんの参与起用話は事前に学会上層部に入っていたらしい。ところが、公明党には伝わっておらず、人事を報道で知った公明党幹部が激怒したというわけです。状況がわかって、当然、党内のボルテージは一気に下がりましたね」

 公明党側にそうした"お家事情"があったとはいえ、せっかく見つけた連携のきっかけをみすみすつぶすとは、野田政権も相変わらず詰めが甘い。
 本誌が報じてきたように、松下政経塾の第1期生である野田佳彦首相は、松下幸之助氏が胸に抱き続けてきた政治への思いの"結晶"のはずだ。松下氏は、戦後の長期政権で堕落した自民党を見限り、それに取って代わる健全な政治の育成を目指した。その"志"は、政経塾から生まれた初の宰相に、きちんと受け継がれているのだろうか。
 松下氏は、創価学会の池田大作名誉会長(83)と初めて会ったころ(1967年)、いよいよ強く政治を志向していた。その背景にあったのは、強烈な「政治不信」だった。
 松下政経塾が79年に設立されたとき、松下氏はこう語っている。

「日本の様子を見ていて、10年ほど前から『これはいかんな』という感じがしたので、なんらかのかたちで、こういうことをやる必要があるのではないかと考えていたのが、ようやく今日の姿で実現するはこびとなったわけです」

 その思いの強さは、73年秋から始まった松下氏と池田氏の往復書簡からもうかがえる。お互い150問ずつ質問を挙げたそのやり取りで、政治に関する質問のほとんどは松下氏から投げかけられたものだった。
 本誌が37年前、この往復書簡を連載した際、担当者だった元朝日新聞編集委員の村上義雄氏(77)も、

「松下さんは政治の現状を憂えていた。長く続いた自民党政権、つまり保守政権への強い疑念があった」

 と指摘するのだ。 財界のカリスマである松下氏に、そこまで政治を憂えさせたもの――その原点は終戦直後の記憶にある。
 松下氏の片腕で、松下電送(現・パナソニックシステムネットワークス)元社長の木野親之(ちかゆき)氏(85)が証言する。

「松下電器がまだ中小企業だった1925(大正14)年、松下は周囲に推され、大阪市の連合区会議員になったことがありますが、このとき、政治は自分の本分とは違うということを思い知りました。それからは、実業家は政治に口を出さず、自分の本業をまっとうすべきだと考え、行動した。それを変えさせたのは、ダグラス・マッカーサー元帥の存在でした」

 松下電器は戦後、連合国軍総司令部(GHQ)によって約5年間、財閥指定を受け、空中分解の憂き目にあった。松下氏は「公職追放」され、松下電器の創業メンバーとして苦労を共にした義弟の井植歳男氏(後の三洋電機創業者)らとも別れるはめになった。


◆「間違ったのは国の指導者や」◆

「戦時中は軍需産業に組み込まれ、松下個人の印鑑で多大な借金をしてまで戦闘機や戦艦を造らされた。ずっと忍従してきたのに、戦後になってみればこの仕打ち。国の運営がよくならないと、経済も成り立たないということが身にしみました。それと同時に、人心が離れていくことも経験しました。そして悩みに悩んだ末、もっと人間の心に焦点を当てて経営をしなきゃいかんという考えに変わりました。松下がPHP、つまり『繁栄によって平和と幸福を』という運動を推し進めていったのもこのころからです。その流れの延長線上に池田先生との出会いがあったのです」(木野氏)

 こんな逸話がある。
 松下電器が財閥指定され、苦しんでいた時期のある日、松下氏は友人の大邸宅を借りて、戦前からの幹部社員たちを集め、すき焼きを囲んで慰労した。
 その最中、席を外して庭に出た松下氏が幹部の一人にこう語りかけたという。

「もう松下も、おしまいになるかもわからんな」

 そして、独り言のようにこう続けたというのだ。

「しかしね、僕の経営のやり方が間違っていたわけやないからいいんや。間違ったのは、国の指導者や。日本政府のやり方が間違うたんやから、それはしょうがないな……」

 政治への強烈な不信感は、松下氏の胸にはっきりと刻まれていたのである。
 財閥指定が解かれ、再び実業に邁進した松下氏が、PHP運動を再開させたのは61年、社長退任がきっかけだった。そして、政治塾を最初に構想したのが65年秋だったという。
 ただし、松下氏が政治とのかかわりを強める際に、初めから政治塾の創設だけを考えていたわけではなかった。語るのは、松下電器労組の中央執行委員長を約20年間にわたって務め、後に同社常務になった高畑敬一氏(81)である。

「幸之助さんは当時、本当は『新党』を作りたかったんですよ。そのころ私も相談に乗ったんですけどね、幸之助さんにはこう言って反対しました。『新党結成は慎重にやってもらわないと大変ですよ。カネもいるし、時間もかかる。なにより既成政党を壊すのは大変なことです』ってね。結局、新党はダメだという話になって、政経塾を作ろうという方向にいったのです」

 松下新党――もしも、これが実現していたら、その後の日本はどう変わっていたのだろうか。
 新党構想を断念した松下氏は、これまで本誌が報じてきたように、池田氏を相談相手にしながら政経塾構想を固め、この2人の"縁"で、松下労組と創価学会も距離を縮めていった。

「当時、創価学会と共産党は『創共協定』(74年)を結ぶなど、良好な関係にあった。そこが結束したら困るので、私どもがしっかり公明党を応援しようという意識もあった。幸之助さんは、政経塾出身者が政治家になるときは『共産党以外ならどこでもいい』と言ってましたね」(高畑氏)


◆首相の同期には公明党の市議も◆

 実は、政経塾出身者のなかで唯一、公明党に所属する議員がいる。野田首相と同じ第1期生の吉田謙治・神戸市議(55)だ。その吉田市議が言う。

「私は政経塾に入ってから学会員になりました。当時、私は政治家志望ではなかったのですが、政経塾の事務局の人たちからは『考え直したほうがいい』という反対の声が多くてね。それで、かなり身構えて松下塾頭にご報告に行ったところ、いとも簡単に『(池田氏は)大変すごい方なんだから、いいんじゃないか。直接ご指導を受けることは難しいだろうけど、いろいろ勉強していきなさい』と言ってくれたことを覚えています」

 吉田氏は卒塾後の91年、統一地方選に出馬して神戸市議になった。そのときの経緯を、先の木野氏が語る。

「松下と池田先生の会談の際、第1期生にこういう人間がいる、と私が水を向けたんです。そうしたら松下は『そら、公明党から出たらええな』と言い、池田先生も『お引き受けしましょう』となった。そんないきさつがあったんです」

 まさに阿吽の呼吸と言えよう。再び吉田氏が言う。

「私自身は松下さんとそういう話をしていませんが、政経塾と公明党の関係は、実際に選挙に出たときに感じました。ほかの政経塾出身者も、選挙のときは公明党や創価学会にかなり世話になっているはずです。その根本には松下さんと池田先生の長年の親交があり、それが今日まで続いているのです」

 2人の往復書簡をまとめた『人生問答』(聖教文庫)の前書きで、松下氏は池田氏との出会いについてこう綴っている。

〈この若さで、このまま成長されれば、将来、国の発展、人心の開発に非常に貢献し、日本の柱ともなる人だと思った〉(75年9月)

 一方、池田氏は85年10月30日付の朝日新聞夕刊の記事で、こう語っている。

「国家が繁栄しないと商売は繁盛しない、という松下さんの国家観とは食い違いました。二人だけの対話ではケンカもありました。明治人と昭和人ですからね」

 確かに当初、2人の考えには食い違いがあった。しかし、その関係性は次第に"違う一面"を見せていくことになる。

「松下は、池田先生との出会いによって大きく変わった。いわゆる『生命哲学』に耳を傾けていくのです」

 両氏の20年にわたる交流のすべてを見てきた木野氏はそう語る。 次号では、2人が肝胆相照らすようになるまでの心の軌跡を追う。(つづく)

週刊朝日

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