すべての発端は9月9日の記者会見だった。

 8日に野田佳彦首相らとともに原発被災地を視察した鉢呂氏は、感想を「残念ながら、周辺の町村の市街地は人っ子一人いない、まさに死の町という形でした」と表現した。その「死の町」という言葉に、新聞やテレビが「不適切だ」とかみつく。当時の状況を鉢呂氏はこう説明する。

「会見では『その発言は不適切では?』という質問や指摘はまったくありませんでした。突然、記事になり、そんなふうに思われていたのか、と驚きました」

 現在も警戒区域となっている双葉町や大熊町は鉢呂氏の目にはそのように映ったのだという。

「バスで20分ほどまわりましたが、ガソリンスタンドには車が乗り捨てられたまま、ついさっきまでここでふつうの生活が行われていたようだった。にもかかわらず、人間がいない。ぼくの乏しいボキャブラリーでは、『死の町』という表現しか思い浮かびませんでした。その前後の発言を聞いていただければわかるのですが、福島の再生なくして日本の再生はない。除染対策など今の困難な事態を改善に結びつけていくことができる、とも言っています」

 実際はどのような文脈で語られた言葉なのかを報じるメディアは少なく、「死の町」という言葉だけが独り歩きしていく。そもそも「死の町」という表現の何が「不適切」なのかという疑問もある。

 元共同通信論説副委員長の藤田博司氏も報道に違和感をもったという。

「人の姿がまったくない市街地を見て、そう感じるのは自然でしょう。被災者への配慮を錦の御旗に、発言が誰にとってどう不適切なのかを説明せず、決めつけて揺るがないメディアにこそ疑問を持ちました」

 さらに不可解だったのはその後に報じられた「放射能つけちゃうぞ」発言だ。

 これは鉢呂氏が「死の町」発言をする前日の8日夜、赤坂の議員宿舎で囲み取材に応じた際に「放射能をつけちゃうぞ」と発言、近くにいた毎日新聞の記者に防災服の袖をこすりつけるようなしぐさをしていたというものだ。「死の町」発言を受けて、9日夜にフジテレビが報じると、新聞も10日付朝刊で大きく報じた。

 藤田氏はこの報道にも疑問を呈する。

「当事者でもある毎日は1面で〈『放射能をつけたぞ』という趣旨の発言をした〉と書いています。記者が直接聞きながら"趣旨"と書くのは不自然。読売は『ほら、放射能』、朝日は『放射能をつけちゃうぞ』など、表現も社によって異なり、事実関係がはっきりしていない。鉢呂氏に真意を確認した形跡もない。この程度の事実で閣僚の進退や責任を問うとは考えられない」

 いったい、8日の夜に何があったのか。

「何度も思い返しましたが、そんなしぐさや発言をした記憶がない。福島から新幹線で戻ってきたばかりでアルコールも飲んでいません。11時20分過ぎに、SPに付き添われて宿舎に入ると、5、6人の記者が追いかけてきたことは覚えています」(鉢呂氏)

 13日付の朝日新聞は、検証記事で鉢呂氏が〈防災服の胸ポケットにしまっていた個人用線量計をのぞき、その日に測定された数値の一つを読み上げた〉と報じている(16日付で訂正)。

「それは間違いです。原発を視察したときに身につけていた線量計の数字が2時間弱で85マイクロシーベルトだった、とは言った覚えがある。しかし、線量計はJヴィレッジに返却した。あの日、私を囲んだ記者で顔を知っていたのは朝日とNHKだけ。2人とも数メートル離れたところにいて、私の声が聞こえる位置にはいなかった」

 鉢呂氏は当初から「記憶にない」と否定したが、新聞やテレビは、福島県民の「辞任に値する」「ふざけるな」という怒りの声とともに「進退問題へ」と報じる。10日、鉢呂氏は辞任を発表した。

「報道のあった夜は一睡もできませんでした。朝には気持ちは固まっていた。福島のみなさんに不信感をもたれてしまった以上、続けることはできません」

 だが、藤田氏は鉢呂氏を辞任に追い込んだことはメディア自身の首を絞めることになったと警告する。

「読者にとってたとえ不快なことであっても、メディアは必要な事実は報じなければならない。『死の町』を不適切と決めつけたメディアは今後どのような言葉で震災や事故を報じるのか。被災者に寄り添うのは大切なことだが、無意識のうちに自分たちの手足を縛っているように感じます」

 わずか9日間の経産相だったが、鉢呂氏は日本の原子力政策の厚い壁を痛感したという。

「経産省にはエネルギー対策の方向性を決める『総合資源エネルギー調査会』という会議がある。私が大臣に着任当時、内定していた委員は15人中12人が原発推進派で、結論ありきの人事でした。しかし、半分は批判派にしなければ国民の理解は得られない。私は人選に着手し、9月にも発表する予定でした。経産省にしてみれば、私は煙たかったかもしれません。この騒動後も大臣で居続けることはできたかもしれないが、混乱は長引くでしょう。日本は今、そんなことをしている場合ではないのです」 (本誌・大貫聡子)


◆吉岡忍が語る、あそこは本当に「死の町」だった◆

 事故から間もない3月下旬、私は福島第一原発から半径20キロ圏内の町に入りました。養鶏場や牧場では多くの鳥や牛が餓死し、人間の姿はない。そこは生き物の気配の消えた、まさに"死の町"でした。

 福島県民は本当に死の町と呼ばれたことを怒っているのか。故郷を死の町にした政府や東京電力に憤っている、と私は思います。ただし「放射能をうつす」うんぬんの発言は本当だとすれば軽率です。

 報道の背景には、被災者を腫れ物にさわるように扱うメディアの姿勢が透けて見えます。家族や故郷を失った被災者は気の毒ではあるけれど、一方で過酷な人生を生き延びようとする強い人たちです。腫れ物扱いには、彼らを"弱者"と見なす裏返しの差別を感じます。そうなった理由には、遺体を報じられなかったメディアの形式主義があると思う。この震災では多くの被災者が瓦礫の下などに無残に横たわる遺体を見ている。だから悲しみも大きいんです。しかし、その厳しい現実から目をそむけたメディアは、被災の残酷さを浅くしか理解できなかった。だからこそ今回のような見当外れの報道に陥ったのではないでしょうか。(談)


週刊朝日