「わたしの父です! 言われるまでもない!」

 思わず声を荒らげてしまったのは、長年、檀家をつとめてきた寺の住職の「おまえさん、亡くなったのが誰かわかっているのか」という、まるで恫喝するかのような口調に対してだった。

 訃報の電話がかかってきたのは、3月のある日の朝。いつものように原稿仕事をしていたときのことだ。

 父が入居していた老人介護施設は関西にあり、わたしが暮らす横浜からだと、すぐに家を出ても6時間はかかる。

 いつものクセで、本をカバンに入れようとして迷った。選んだのは『葬式は、要らない』『戒名は、自分で決める』の2冊の新書だった。

 いずれも宗教学者の島田裕巳氏の著書で、高額な葬儀や戒名への懐疑を説き、ベストセラーにもなっていた。とりわけ、後者の本では「戒名」の起こりとともに、故人をよく知るものがつけることができるとも書かれ、「戒名作成チャート」が付いた実践書になっている。

 晩年の父は「葬式なんかいらん」と繰り返していた。「じゃ、ほんとうに何もしないけど、いいの?」と意地悪く聞き返すと、戸惑い気味に「そら、あかん。ヘルパーの○○さんには来てほしい。あとはオマエだけでいい」と言うのだ。

 ようは、村のひとを集めた仰々しい儀式は不要だと言いたかったようだ。

 88歳で逝った父は、兵隊にとられた以外は故郷から出たことがないひとだった。かつて稲穂の匂いがたちこめた田んぼの風景は消え失せ、いまは国道沿いにファミレスが林立する、全国どこにでもある郊外の町になって久しい。

 老いてからも村の葬式には欠かさず出席していたにもかかわらず、晩年、自分の葬式は不要と言い続けていた。20年前に他界した母の戒名料には100万円を払ったという。信心があるのかと問うと「あんなクソ坊主、強欲な」と言う。それでも、盆ともなれば高額な寄付を欠かさなかったひとだった。

 結局、近しい親族にだけ声をかける「家族葬」を行うことにし、電話帳で葬儀社を探した。石原良純さんの出ているテレビCMが脳裏をよぎり、大きな広告ではなく、小さいけれども親身なことばが綴(つづ)られているところに電話をかけた。

 自宅での葬儀の段取りはなんなく進んだものの、問題は「戒名」だった。

「そんなに坊さんが気に入らないのなら、戒名はぼくがつけようか。どういう文字を使うとかの決まりごとを守れば、別にお坊さんがつけないといけないわけじゃない。つけ方の本も出てるから」と言うと、いつも怒り顔の父が「そうか、おまえがなぁ」と笑った。

 まだまだ先のことだと思っていたが、それから1年もたたずに新幹線の中で、島田氏の本を読み返すこととなった。

 老いるほどに頑固になり、親族との諍いの絶えなかった父だったが、不思議と戒名を考えている間は、幼いころに川遊びにつれていってもらったことなど穏やかな面影が次々と浮かんできた。書いては消しを繰り返したのは、わずか2文字で、故人のひととなりを表す院号をどうするか。のぞみが名古屋を出たあたりで「喜捨院」と決めた。

 阪神の大震災で被災してからの父は、赤十字や福祉団体に寄付し、感謝状をもらうのを喜びにしていた。ある意味、父にとって唯一の趣味だった。

次のページ