◆困ったときには何度も電話、密なサポートが大きかった◆

 約束を忘れる。話の辻褄が合わない。島本一道さんにそんな症状が目立ち始めたのは2006年春だった。証券会社などに勤めた後、1997年に自らヘッドハンティングの会社を起こした一道さんは、深夜に帰宅したり、夜中でも海外と連絡を取ったりしていた。

 妻の多江さん(51)と病院へ行くと、悪性の脳腫瘍と診断された。入院して手術を受けたが腫瘍を完全に取り除くことはできず、余命は約6カ月と言われた。

 大学生の長女、海外の高校に留学していた長男、高校受験を控えた次男。職場結婚だった多江さんとの間に3人の子がいたが、一道さんは比較的、冷静に受け止めたようだった。3人の将来は心配だが、自分はやりたいだけ仕事をやり、食べたいものも食べ、行きたいところへも行った、と。

 脳腫瘍の患者は安定した状態が続くこともあるからと、医師は在宅での療養を勧めた。とはいえ、どこに相談すればいいか見当もつかない。多江さんが小平市役所に相談すると、「この中からケアマネジャーを見つけてください」と一枚のリストを渡された。何件目かの電話で、自宅から歩いてすぐの距離にあるケアタウン小平を教えてもらった。

 体調に応じ、医師の診察が月に1、2回、訪問看護と訪問入浴が週に1、2回、水曜日にはケアタウン小平のデイサービスに通った。

 自宅で近所の子どもたちに英語を教えていた多江さんはこの間、休むことなくレッスンを続けた。

 家で療養するにあたって、多江さんがもっとも恐れたのは一道さんの発作だった。発作が来ると、電池が切れたようにその場に倒れてしまう。意識を失い、激しいけいれんを起こすこともある。自分ひとりでうまく対応できず、それが原因で命を落としてしまったら--。そんな不安を山崎さんや看護師に打ち明けると、

「発作はどこにいても起こり得る。家での対処法はあるので、落ち着いてできることをすればいい。わからないことがあれば電話をください」

 と励まされた。

「いつでも電話できる安心感はすごく大きかった。それがなければ、自宅では見られなかったと思います」

 と多江さん。実際、何度電話したことかわからない。

 病院では医師にも看護師にも良くしてもらったとの思いはあるものの、遠慮もあり、自分の聞きたいことや伝えたいことを言えずじまいだった。家では違った。

 一道さんの食欲が落ち、体もやせ細ってくると、もう少し食べたり飲んだりしてほしいと思う。それを山崎さんに伝えると、「食事を受け入れる力が衰えているところに無理に食べ物を入れると、苦痛の原因になることがある」と説明された。密に会話を重ねることで、ひとつひとつの対処に納得できたという。

 そんなサポートを得ていた多江さんも、心が悲鳴をあげたことがある。看護のかたわら、夫の会社をどう残すかという心労と、末の子の受験の心配が重なった。

「もうできないかも」

 ある日、一道さんのベッドのそばで、多江さんは涙をこぼした。そのころ一道さんは言葉が出ない状態だったが、多江さんの手をぎゅっとつかんで、「大丈夫、大丈夫」とでも言うかのようにゆすってくれた。

「夫の気持ちがすごく伝わってきて。頑張らなくちゃ、頑張れる。そう思いました」

 2007年7月11日、前日の夜中に大きなけいれんが起き、一道さんは50歳で亡くなった。病院では患者が目の前にいるのに心電図ばかり見てしまうことが多いと聞いたが、多江さんは子どもと4人、大泣きしながら、しっかりと見送れた。

次のページ