福島ルポ

原発施設・避難指示圏の「内外」、避難民は、作業員は...?その実態を追った。

◆半径キロ圏内の浪江町、放置された悲しき遺体◆
 浪江町男性(40代)
 浪江町の役場から2キロほど行けば、海に近いところになります。
 こっそり一時帰宅してみたのですが、その光景はもう絶句でした。あたり一面が津波にやられていて、見えるのは瓦礫(がれき)と大木、流された車ばかりでした。子どものころからずっと育ってきたところで、慣れ親しみ遊んできたのどかな集落、漁村が跡形もない。あまりに無残で涙も出ませんでした。
 この付近は原発から直線なら10キロもない地域。復興に向けた活動が、まったく手つかずの状態です。瓦礫の中を進んでいくと、油のにおいがしたと思ったら、何か腐ったようなにおいもする。人は一人もいない、異様な光景です。
 動いているのが犬や鳥。犬は人の気配を感じると、すごい勢いで迫ってくる。何頭も犬がいたところがありました。見れば、何か赤いものをくわえている、肉片のようなものを。人間の手のようなものも見えました。しばらくすると、鳥がその肉片らしきものにたかっていた。この地域は、かなりの行方不明者が出ています。その方たちのだったらと一瞬、鳥を追い払おうと思いました。
 しかし、放射能汚染のことが頭をよぎり、結局、何もできませんでした。
 原発のほうからの潮風もきつい。その潮風に放射能が含まれていたらと思うと、足がすくみました。まさに地獄です。

◆富岡町の社員寮に3週間以上"閉じこめられた"◆
 東京電力の協力会社社員 矢口浩志さん(48歳)
 柏崎市から東海村、福島第一で3カ所目の原発の仕事でした。3・11の大震災のときは、5号機でブロックアウトという仕事をしていました。点検工事のためにタンクを遮蔽(しゃへい)している、ブロックを積んでいました。
 日当は1万円、危険度B1とか2といわれる真ん中くらいの区域です。地震のときは、すごく揺れたのですが、スペースがなく逃げ場がない。
 ブロックは正方形で1個30キログラムもあります。それが地震で揺れ、狭いところに崩れてくる。一人の作業員は高さ3,4メートルから落ちてくるブロックの下敷きになりそうになった。当たれば間違いなく、大けがです。恐怖でしたよ。
 おまけにブロックのせいで粉塵が舞い上がり視界がさえぎられ、よけいに怖かった。それに建屋が古いのでアスベストを使用している可能性もあるから、大丈夫かと気になりました。
 地震のときドーンという音がして、電気が消え、非常ベルが鳴り、放送で「至急退避、外に出てください」とか言っていました。
 出口に殺到して、なんとか外に出ました。しばらくして、「津波が怖い」「津波じゃないか」という声がして、「高台に行け」と言う。
 逃げるとき、えらい血を流している人がいて、大丈夫かと思ったのは鮮明に記憶しています。なんとか徒歩で会社の現場事務所に戻り、線量計を戻して、車で富岡町の寮に帰りました。
 しかし、私の地獄はそこからでした。
 午後5時くらいに寮に着いたら、仲間が3、4人いた。しばらくすると真っ暗になっても、電気はだめ。携帯電話のワンセグを見ていると津波で大変だという。思わず震えがきました。
 どうしようと思っていると、富岡第2中学校が避難所で食事ももらえるらしいと、寮の仲間が言うのでそこに行きました。その夜はそこで過ごして、翌日、寮に戻りました。
 しばらくして、原発の「避難指示」だと仲間が言う。あわてて荷物を詰めて出る用意をしたのですが、気がつくと仲間がいない。自分だけ逃げ遅れてしまった。私は秋田県出身でまったく、土地勘がない。やばいと車に行ったのですが、エンジンがかからない。10年以上も前のぼろい軽乗用車。携帯は地震直後からまったく通じないですし、そこから、サバイバルがはじまりました。
 寮の部屋にあったのはお菓子3袋、カップラーメン6個だけ。それを食べてしのぐ生活に入りました。寮というのは山の中にあって何もない。徒歩圏内であるのは自販機くらいです。
 それから毎日歩いていろんな方向に行ってみたが、人の気配はない。寮は暗くて怖いので、車の中で寝泊まりしました。たまに自衛隊らしき車が通過するので、見つけて寮から手を振ったり、走ったりしたのですが、通過するばかり。寮は道から奥まったところにあるからです。
 カップラーメンを2日に1個、生でかじれば12日間持つ。それにお菓子3袋がある。あと近所で電源がきている自販機を見つけて、それで携帯を充電し、ワンセグだけは見られるようになった。ジュースもそこで買えるようになった。
 しかし、空腹と、寒さと怖さが襲ってきます。絶望の中、そのうち協力会社の人が捜しに来てくれるという期待があったが、まったく来ません。携帯も相変わらずつながりません。3月25日にラーメン、お菓子、すべてなくなった。
 その後はジュースと水で命をつなぎましたが、自分の人生ももう終わったなと思いました。原発はますます、危なくなっているし......。
 そんなとき、偶然、通りかかったボランティアの方に発見されたのが、4月2日午後でした。「もうどうなってもいいから」とやけくそになっていたときです。
 すぐに相馬市の病院に連れていってもらい、放射能検査をしたが、異常はなかった。
「震災から3週間以上も富岡町で過ごしてこの数値は本当か?」
 と医者も驚いていました。
 発見されたとき、ボランティアの方が作ってくれたインスタントラーメン、本当にうまかった。

◆本社は何をやっているのか、本当に早くしないとヤバい◆
  福島第一原発で作業する東京電力社員(40代)
 4月7日の地震があったときは、ものすごいパニックでした。
 場内放送で、「緊急、地震です」とアナウンスが連呼。免震重要棟といえどもかなり揺れます。東電本社と2階のフロアでは戦場のように交信する大きな声が聞こえました。
 今も原発の危機的な状況は脱していません。汚染水を止めるために、吸水性ポリマー(樹脂)や新聞紙を投入しました。あんなもの、原発の現場にいる人間からすれば、こっけいでなりません。絶対、そんなものでは水は止まりません。
 現場のスタッフたちは、あきれて仕事していました。なんで馬鹿なことをやらなきゃいけないのかと。砂利をガラス状にして止めるアイデアはすばらしかった。水が止まったことがわかったときは、みんな拍手でしたね。
 圧力容器の問題ですが、毎日、現場の人も集まり、朝や夜にミーティングします。その数値からも、破損していることが明らかです。長く仕事していて、あり得ない数値が出ているので、どうみても破損でもしていないとそんな状態にならないからです。
 報道を断片的に見ていると本社は相変わらず、ちゃんと認めないようですね。一大事には、素直に情報開示して、いろんな学者、専門家から意見を聞いたほうがいいです。
 それに、燃料棒だって、震災のあった日の夜のデータを見ましたが、すでにそのときに、一部が露出していたはずです。それも正直に発表していないですよね。現場からはきちんと報告をあげているのに。
 今いる作業員は、経験があるメンバーが大半。しかし、被曝量が増えており、そう長く仕事できません。いずれ交代です。このメンバーが働けるうちに有効な手を打たないと本当にヤバいことになりますよ。それなのに、世間の目をかわすことばかりしていて、これじゃだめです。

◆大町の病院で遺体のまま3週間放置されていた父◆
  富岡町・佐藤和彦さん(47歳)
 87歳の父、久吾(きゅうご)は地震のあと大熊町の双葉病院に遺体のまま、3週間以上放置されていました。
 3月11日の地震があった日の深夜、私は双葉病院のスタッフに父の無事を確認しました。そうするうち、12日の朝には我々の住む富岡町にも避難指示が出たため、私と妻は避難所を転々としながら親類のいる東京に避難しました。
 その間、父の入院していた双葉病院の患者さんは大変な状況にあったのです。
 《原発から20キロ圏内にあった双葉病院には339人の患者がいた。地震発生後、寝たきりなど重篤な患者ら146人は取り残された。14日から16日未明にかけて自衛隊などが救出したが、搬送中や搬送後に21人が亡くなっている。》
 
 私は、患者が運ばれた県内の避難所で「行方不明」の父を捜し続けました。双葉病院の院長がいる、いわき市の関連病院にも、福島県にも何度も父の所在を問い合わせましたが、「わからない」という答えばかりでした。おまけに福島県内ではガソリンが手に入らない。そのため、東京で車に給油して福島県に車を走らせ、双葉病院の患者が運ばれた避難所や亡くなった患者さんの遺体が安置された場所を訪ねては、東京にトンボ返りという生活でした。
 むごい事実を知らされたのは地震から3週間を過ぎた4月3日でした。父はすでに亡くなっており、遺体は双葉病院に放置されたままだったというのです。
「6日に警察が病院に入り遺体を運ぶ」
 と、双葉病院側から連絡が入りました。
 6日の夕方、私はようやく父と対面しました。妻が差し入れたパジャマを着ていましたが、呼吸器をつけたまま亡くなったのか、父の目と口はぽっかりと開いたままです。
 双葉病院が出した死亡診断書によると、亡くなったのは3月14日の午前5時12分。直接死因の欄に「肺癌(はいがん)」とだけ記されていました。診断書から推測すると担当医が看取ったのでしょう。
 《福島県の災害対策本部に常駐する陸上自衛隊などによると、3月14、15日に3度にわたって救出作業をした。146人の患者らが取り残されていたが、14日は病院にいたのは2人の医師と4人の職員のみ。翌15日は、病院の関係者はだれもおらず、1人の自治体職員と1人の警察官、そして約100人の患者たちだけだった。空の点滴が体につながれたままの患者や、徘徊(はいかい)する患者がいるなど過酷な状況だった。そして、陸自は名前を書いた紙とともに布に包まれた遺体を3体(その後もう1体)発見したという。》
 
 地震のあと、混乱を極めていたであろう病院の中で息を引き取った父の死因が本当に「肺癌」だったのかという疑念はあります。でも、なぜ3週間も遺体が放置されたのか。なぜ病院はもっと早く知らせてくれなかったのかと悔しさばかりがこみ上げます。
 すべてに納得などしていませんが、遺体もだいぶ傷んでいたし、ここで死因について調べようとしたら、葬ってあげることができない。早く父を火葬してあげたいという気持ちを優先させただけ。それでその日のうちに、双葉病院が作成した死亡診断書を受け取り、町役場に火葬の手続きを行いました。そして、7日に火葬することができました。
 父の遺骨は東京の住まいに持ち帰りました。でも、2年前に亡くなった母の墓は富岡町にあるんですよ。私たちも父も、いつ富岡町に戻れるのかわからない。けれど、早く母の骨と一緒にしてあげたい。本当に、仲のいい夫婦でしたからね。
週刊朝日