未曽有の大震災から一夜明けた3月12日、本誌記者5人が現場に足を踏み入れた。一つは青森から岩手へ南下するルート、もう一つは福島から宮城へ北上するルート。さらに山形から東を目指すルート。ヒビ割れてひしゃげた道を進み、車を乗り捨てて濁流に埋もれた現地へと分け入っていく。

 そして記者が辿り着いたのは、1千人の遺体が発見され、なお8千人が安否不明の宮城県南三陸町だった。

 壊滅的な津波によって、住民約1万8千人の半数近くが犠牲になった可能性があるこの町は、見渡す限り一面の瓦礫で埋め尽くされていた。残った家屋は高台の数軒しかない。まさに地獄絵図だった。

 そのとき、そこで何が起きたのか--。

     ◇    ◇

 街の中心部を流れる八幡川に沿って猛烈な勢いで進む津波は、幅も奥行きも想像を絶する大きさで家屋をのみ込んでいった。

 3月11日午後2時45分ごろ、南三陸町は3月定例議会の最終日を迎え、町長が町役場本庁舎の議場で挨拶を始めたところだった。

 大地震が起きて、町職員の多くは避難場所で町民の誘導に当たったが、総務と企画、危機管理の3課の職員は配備計画に基づいて、防災対策庁舎2階の対策本部に集まったという。

 その一人、総務課長の佐藤徳憲(とくのり)さん(60)が、"それ"に気付いたのは地震発生から30分程度たったころだった。

「停電でテレビも見られず、ワンセグと携帯ラジオで情報を得て、津波が来ることを何度も防災無線で流しました。そのとき、ふと窓の外に、隣接する八幡川を新幹線のような速さで上る塊が見えたんです。川の土手からあふれ始めた時点で、職員も2階から3階、そして屋上へと避難しました。そのときは三十数人いたと記憶しています」

 庁舎の屋上には、高さ1メートルほどの金網フェンスがグルッと囲むように張ってあった。避難した職員たちはそのフェンスと、外階段の鉄柵、テレビなどのアンテナ支柱に張り付いた。

 佐藤さんは階段の鉄柵にしがみついた。屋上からは自宅が見下ろせる。そこには妻が2匹の犬といたはずだ。そう振り返る佐藤さんは、涙まじりに語った。

「実は対策本部に行く前、ちょこっと自宅へ戻ったんです。防寒着と運動靴を取りにね。玄関から奥に向かって『すぐ逃げろよ』と言ったら、『チリ津波でも大丈夫なんだから平気よ』と返ってきた。妻は3歳年上で、12歳のときにチリ津波を経験していた。家の中はタンスが倒れていたけど、妻の顔までは見なかった。『とにかく逃げろ』と二言目を言わなかったのを、とても後悔しています」

 51年前のチリ津波は、日本でも三陸沿岸を中心に142人の死者・行方不明者を出した。それでも南三陸町は大きな被害を出さなかったという記憶が、町民たちに深く刻まれていた。

 屋上から見下ろす佐藤さんの目の前で、隣の個人病院が流され自宅にぶつかった。間もなく家は水にふっと浮き、増築した部分で真っ二つに割れて、グルグルと回りながら上流へ流れていった。

 だが、感傷的になる暇はなかった。屋上でも腰の高さまで水位が上がってきたのである。

「10センチほどの鉄柵の隙間に、足を絡めるように突っ込みました。波が勢いを増すと、庁舎に当たってザブン、ザブンと頭から襲ってくる。これでもか、これでもかというほど長い時間でした。メガネは吹き飛び、目をつぶって必死にしがみついた。波をかぶるたびに、隣にいた町長と『頑張ろう』と励まし合いました」

◆第2波に備えて、支柱によじ登る◆

 最初の津波がおさまったとき、一緒にいたはずの職員の多くが金網ごと流されていた。残ったのは鉄柵に7人、アンテナ支柱に3人の計10人だけだった。

 町長のメガネを借りて辺りを見渡すと、あったはずの建物がほとんどなくなっていた。ガスボンベが火を噴き上げながら流れていた。ワカメやクロソイも漂っていた。自宅の跡地には、キンモクセイの植木が1本だけ残っていた。

 呆然とする心を抑え、第2波、第3波に備えて、波が高くなるたびに10人で2本のアンテナ支柱にかじかむ手でよじ登った。

 どれくらい時間がたっただろうか。月明かりはあるが、小雪が舞う中、ずぶ濡れの服に寒さが染み通る。このままでは死んでしまうと、午後6時ごろ、ライターでネクタイに火をつけた。その火を、流れてきた発泡スチロールへ移し、次にベニヤ板、そして角材へと移した。着ていた服を1枚ずつ火にかざして乾かした。1枚乾くと着て、次の1枚を脱いで火に当てた。

「数人の職員は茫然自失で精神的に危ない状態だったけど、『みんなの命を無駄にすべきじゃない』『とにかく頑張ろう』と励まし合いました。ネットに入ったみかん5個が流れ着いて、2人で一つずつ食べた。余震で建物が持つのかが恐怖だった。『これ夢だよね?』と言う職員もいた。午前3時ごろには寒くなくなりました。実際は零下だったんだろうけど、服が乾いてそう感じたんでしょう」

 夜が明けて水が引けた。

 佐藤さんは3月に定年退職を迎える予定だったが、しばらくは被災者の支援に追われる。

「次男が無事だったのが救いですが、家内を失ったのに、なぜか悲しみを感じられなくなっている。何しろ総務課の部下も7人が行方不明になっている。1年目の新人もいて、申し訳ない気持ちでいっぱいです。いまは自分のことを考えられないんですよ......」

 一瞬にして波間に消えた20人以上の職員たちの中には、奇跡的に生還を果たした人もいた。町民税務課の三浦勝美さん(48)である。

「あの日は確定申告の受け付けに追われていました。僕も屋上でアンテナの支柱につかまったんですが、津波の威力がすごすぎて手が耐えられなかった。水を飲みながら上に向かってもがいたら水上に浮いた。瓦礫をかき分けて木材にしがみつき、畳を見つけて乗り移ったら楽になりました。そのとき、同じように波に浮いてる仲間が数人、遠くに見えました。引き潮で僕の畳は運良く病院の4階に流れ込み、必死にはい上がって助けられたんです」

◆引き潮で見えた、伝説の「双子岩」◆

 生死の明暗を分けたのは「運」だけではない。「逃げ遅れた」のではなく、「逃げなかった」住民たちが数多く犠牲になったようだ。

 夫婦で魚屋を営む西条聖(さとし)さん(76)は、
 「海に近い市場で店を開いてるけど、財布と携帯だけつかんで車に乗り込んで避難したの。まわりもみんな逃げていたよ」
 と言うが、夫婦で長く運送業を営んできた工藤ケサヨさん(77)はこう話す。

 「地震が起きて、通帳とハンコだけ持っておじいさんと車に乗った。一人暮らしの向かいの奥さんに一緒に乗ろうって誘ったけど、『いいの、大丈夫』と断られたの。それ以上は強く言えないでしょ。隣のおじいさんも誘ったけど、『新築だから津波が来たら3階に上がる』って残った。ウチは家が古いから逃げたけどね。高台に避難して振り返ったら、家の門の上から水が降りかかっていた。バチバチと大きな音がして、土色の煙がもくもくと上がってね。おっかねかったぁ」

 チリ津波では、水辺に住む工藤さんの家でさえ1階の扉の高さまで浸水した程度で、2階に上がれば難を逃れられた。この「教訓」が、逆に多くの住民を"油断"させる結果となったのだ。

 しかし、今回の津波がチリ津波をはるかに超える大きさだったのは、紛れもない事実だろう。町の生き字引である佐藤キツヨさん(98)も、こう言う。

 「チリ津波はパチャパチャ。今回は戦争みたいだ」

 元漁師の本多好治さん(68)の目撃談は、その異常さを物語っていた。

 「八幡川の河口付近には『双子岩がある』と伝説のように言われてきたが、一度も見たことがなかった。普段は上を船が通り、引き潮でもまったく見えないのに、今回、高台から海を見ていたらハッキリと見えた。これはスゴイことになるかもと思っていたら......」

 津波が引くとき、漂流する家の屋根の上で明かりを振りながら海へ流されていくお年寄りの姿も見えたという。

 高台にある特別養護老人ホーム「慈恵園」は、住民の避難先や、被災時の診療先に指定されていたが、津波に襲われた。施設利用者や職員が何人も犠牲になった。職員の佐藤喜久子さん(65)が語る。

 「利用者を集めて待機していたら、みるみる水位が上がってきた。お年寄りを車椅子に移したり、外へ誘導したりしたけど、間に合わずに助けられなかった人も多かった。濁流と一緒に車まで流れ込んできて、私たち職員も傷だらけになりました。水が引いた後、息のある人を連れて、急いで高台へ逃げました」

 誰も想像だにしなかった猛威--自然の力の前に人間はあまりにも小さな存在だった。

◆車椅子の妻をちゃぶ台にのせた71歳の夫は、冷水に浸かったまま15時間支え続けた◆

 仙台空港のすぐ近く、沿岸にある宮城県名取市の閖上(ゆりあげ)地区では、猛烈な津波が町をのみ込み、集落を壊滅させた。名取川が河口から逆流し、瞬く間に濁流が堤防を乗り越えた。

 古くは漁師の町として栄え、現在も船を持つ世帯が多い。道の中央に横たわった漁船が、被害の甚大さを物語っていた。

 森勝寿さん(71)と妻の直子さん(69)は結婚して40年以上、ずっとこの地で暮らしてきた。

 直子さんは30代から悪性の関節リウマチを患い、いまでは首、肩、ひじ、腰骨、ひざなどすべてが人工関節のため、自力では車椅子から一歩も動けない。勝寿さんは10年以上、その妻を介助し続けてきた。わずかな年金暮らしだったが、夫婦で支え合って生きてきた。

 突然の揺れが2人を襲ったのは、自宅でテレビを見ていたときだった。テレビは倒れ、障子は外れてビリビリに破け、そして家具が倒れかかってくる--。

「妻は動けないので、その場で妻をかばってジッとしているしかなかった。揺れがおさまってしばらくすると、今度は津波警報のサイレンが鳴り響いた。車椅子で小学校まで移動するなんて到底ムリ。そのときは2人で死を覚悟しました」

 いくらもたたないうちに、濁流が流れ込んできた。直子さんは水流で車椅子からはじき飛ばされ、勝寿さんは壁に打ち付けられた。

 直子さんを見ると、ちゃぶ台に必死にしがみついている。勝寿さんはなんとか泳いで妻に近づくと、水に浸からないよう下から担ぎ上げた。

「大丈夫だ、大丈夫だ」

 体を動かせない妻にとって、この状況は過酷すぎる。10分ほどで波の勢いは弱まったが、水位はまだ勝寿さんの胸下まであった。直子さんの息ができるようにするには、ちゃぶ台ごと持ち上げるしかない。

「もう、この状態で耐えるしかない。普段から妻はワシがいなくなるとパニックになる。いまこそ一瞬でも離れてはダメだと思ったんですわ」

 材木、油、泥、トイレの汚物--何もかもが家の中に流れ込んでは通り抜けていく。助けを叫んでも、家の前は瓦礫でふさがって声が通らない。寒さと臭気に耐えながら、勝寿さんは妻を支え、汚濁の中に浮いているしかなかった。

「手はかじかむし、腕も上がらない。けれど、妻は下半身が水に浸かったまま頑張っている。妻は何度も『いろいろ、お世話になりました』なんて言う。ワシは『頑張れ、頑張れ』と励ますしかなかった」

 日が落ちると家は暗闇に包まれた。直子さんの体はどんどん冷たくなっていった。勝寿さん自身、何度も諦めそうになりながら、腕の感覚がなくなるまで支え、声をかけ続けた--。

 そのころ、同じく巨大津波にのみ込まれた南三陸町では、別の老夫婦が命の灯火を守っていた。

 元漁師の佐藤喜昭さん(68)の自宅がある廻館(まわりたて)地区の高台は、チリ津波でも無事だった地域である。

 「地元の区長は常々、『ここは津波が来ないから、地震のときは家にいろ』って話してた。地震直後も区長が一軒ずつ見回りに来てたよ。でも、巨大な鉄砲水が八幡川を上ってきて、途中からあふれて斜面をこっちに向かって走り始めるのが見えた。すぐに向かいのおじいさんの家が動き始めて、ウチにどーんとぶつかった。それで、かあちゃんと階段を駆け上がったんだ」

 流れ込んだ水は、1階の天井付近で止まった。佐藤さんが妻(65)とベランダに出て手すりにしがみつくと、間もなく自宅が浮いて動き出した。

◆2階部分だけで濁流に運ばれた◆

「それからは、何が起こったのかわからなかったね。グルグル回って流れたんだけど、すごい回転でどこをどう動いたのかわからないの。ただ、築40年で昔の瓦屋根だったから、ほかの家屋よりも重かった。ウチの脇を、真新しい家がどんどん流れていったからね。気付いたときには、線路の盛り土に着地していた」

 家屋はベランダを上にして斜めに傾いていた。部屋の下方にあったソファの上へ、2人で滑り落ちてしがみついた。

「娘が買ったイタリア製ソファで、贅沢だと注意したこともあったけど、いまは感謝しなきゃね。寒いからカバーを外して2人でくるまった。かあちゃんが『おら、外が見えねぇと怖ぇ』と泣いて暴れるのを、くるんでギュッと抱き寄せた。『体力さ温存しねぇと』と抱き寄せてなだめたんだ」

 津波は何回も寄せては引いた。そのたびに、いくつもの家屋が脇を通り過ぎていった。

 家の2階部分だけが割れて、再び流されたのは5回目の津波だった。大きく内陸へ押し出され、引き潮のとき地面に引っかかった。

「そこは斜面で、少し上に懐中電灯の明かりが見えた。地域の避難場所の高校だった。いましかないと思って、水に飛び込んだんです。足が着かないから、妻の股に腕さ突っ込んで丸太にのせた。瓦礫をかき分けて、夢中で上ったよ」

 まさに生死を分けた一瞬だった。

 一夜明けて空が白みはじめた午前5時半ごろ--。

 冒頭の名取市閖上地区の森勝寿さんは、水がひざ下まで引いてきたことに気付いた。やっと妻の直子さんを下ろすと、額が氷のように冷たく顔も真っ青だった。

 勝寿さんは瓦礫をどかして外へ出ると、ありったけの声で叫んだ。

「助けてくれ!」

 声に気付いた近所の人が、憔悴しきった直子さんを引き揚げたのは、震災から実に15時間後のことだった。

 直子さんの体温は33度しかなかった。それでも搬送された病院で応急手当てを受け、一命をとりとめた。

 いま直子さんは、勝寿さんを見ながらこう言う。

「わたしはお父さんがいないと何一つできない。生きてるのが奇跡的です。助かったのが不思議でならない。お父さんと、救出してくれた人に感謝の言葉もない」

 水、食料、持病の薬も十分ではない。夜は病院にいても寒さが襲う。でも、今日も勝寿さんは直子さんの側に寄り添って避難生活を送っている。
 
◆避難所へ迫る「黒い壁」に気づいた男性の「逃げろ」という叫びが400人を救った◆

 田畑の上を這う濁流が、容赦なく家や車をのみ込んでいく--地震発生の直後に流れた衝撃的な映像は、視聴者の脳裏に強く刻まれていることだろう。

 現場となった仙台市若林区の沿岸部では、200~300人もの遺体が見つかった。目を覆いたくなるような惨状だが、ある50代男性の機転が大勢の被災者を救っていた。

 津波が襲う直前、地域の避難場所となっていた東六郷小学校の体育館には、小学生や保護者など約400人が毛布や荷物を持って避難していた。証言するのは、その男性本人だ。

「私も家族を連れて体育館へ入り、少し落ち着いたので一度外へ出たんです。すると海側に黒い壁のようなものが見えた。学校から海岸まで直線距離で2キロはある。あんなのは見えたことがありません」

 巨大津波だ。

 直感的にそう思い、体育館へ駆け込んだ。

「津波が来る!! 逃げろ!早く!」

 そう大声で叫び、非常階段で、小さい子どもから順に学校の上層階へ避難させた。車椅子の人は担いだ。

「最後に4人だけ残ってしまったけど、体育館の2階部分の柵などにつかまってことなきを得たようです。あのとき津波に気づかなかったら、ほとんど助かっていなかったと思う。考えるだけでゾッとします」

 その若林区から北に数キロ、仙台新港(仙台市宮城野区)の「リンカイ物流」社長の菊田菊夫さん(63)が津波に襲われたのは、3回目の大きな揺れの数分後だった。

「事務所1階の半分以上の高さまで水が押し寄せ、あちこちから車が流れてきて事務所にぶちあたる。事務機器や酒、食品なども駐車場に流れ込んできました」

 そのとき、会社の玄関脇にしつらえた自慢の日本庭園の木や、重さ約10トンの大きな庭石に、人がしがみついているのに気づいた。

「2キロぐらい離れた所にソニーの工場がある。そこのエンジニアが津波に巻き込まれ、偶然、ウチの庭石に手が届いてしがみついていた。なかなか水が引かず、助けるまでに3、4時間はかかったな」

 同じく津波で甚大な被害を受けた福島県相馬市。最初の揺れがおさまって、佐藤タカ子さん(80)が家の外で近所の木村ハギさん(84)と話していると、床屋に行っていた息子の浩正さん(57)が飛び込んできた。

「早く逃げろ。高台だ!」

 海を見ると、真っ白な波がはるかに高いところから落ちてきて、堤防を越えた。浩正さんらが乗り込んだ車の後ろから、真っ黒な水が家や車、電柱を押し倒しながら迫ってくる。

 浩正さんが叫ぶ。

「死ぬときは一緒だ!」

 車が狭い道に入り込み、動けなくなった。

「こっから走れ!」

 水は家や車、電柱を押し流して迫ってくる。もう間に合わない。浩正さんが目の前の家の玄関をたたき壊した。

「この家の2階だ!」

 駆け上がると、後を追うように水が家に入り込んだ。木村さんが言う。

「佐藤さんの息子がいなかったら泥の中にいたよ」

 まさに間一髪だった。

◆子どもを連れて車で給油に出た直後、避難していた集会所は津波にのまれた◆

 ありとあらゆるものを根こそぎのみ込んだ津波だが、車で必死に逃げ、九死に一生を得た人もいた。

 宮城県東松島市の市営立沼住宅に住む佐藤秋夫さん(38)の妻は、最初の揺れが来たとき3人の子どもを病院へ連れていく途中だった。

「自宅に戻ったら、今度は津波が来ると言われ、集会所へ避難しました。そのとき車のガソリンが気になったので、子どもを乗せて給油に行ったんですよ」

 給油していたわずかの間に、帰り道が水に浸かり、戻るに戻れなくなった。しばらくして大きな津波とわかり、あわてて近くのスーパーの駐車場に車を滑り込ませた。水が引いた後で戻ると、市営住宅は壊滅状態だった。

「地震と津波、2度も幸運に恵まれて助かったと思うと、言葉もありません」

 海岸から2・5キロ離れた所まで津波が押し寄せた福島県相馬市で漁網販売業をしている長井章さん(63)は、地震発生後に家族を避難させた後、孫のミルクなどを取るため自宅へ戻った。倉庫の窓が開いているのに気づき、閉めようとしたとき、「バリバリッ」と音がした。

「津波だ。逃げろ!」

 すぐに車に飛び乗った。道端には近所の人たちが20人ぐらい固まっていた。

「早く逃げろ!!」

 車窓から叫び、走り続けた。バックミラーに、真っ黒い波が家の残骸とともに塊となり、ものすごい高さで押し寄せるのが映った。後ろに車が5台ほど続いていた。濁流はどんどん近づいてくる。無我夢中で車を飛ばし、高台のバイパスにたどりつくと、後続の車両は3台になっていた。

「おれの後ろはダメだったんだ。おれもあと少し遅れたらダメだった」

 火力発電所で約千人が一時孤立した福島県新地町では、海沿いにあった新地駅を津波が襲い、列車は横転、駅舎はほとんど水没した。

 大学生の武澤廣征(ひろゆき)さん(19)は、大きな揺れに見舞われた後、津波を警戒し家族で避難所へ移った。そこで祖母が、
「アイロンのスイッチ、つけっぱなしだ」
 とそわそわし始めた。

「火事を出したらダメだ」

 武澤さんは、祖母を車に乗せて家を目指した。ちょうど踏切で、電車が来るタイミングにひっかかった。

「じゃあ別の道を通ろう」

 そう思い、踏切の20メートルほど手前で対向車を待っていると、前から来た人が叫んでいる。

「戻れ! 戻れ!」

 言われるままにバックすると、前方から下水処理場のはるか上まで上がった白い水しぶきが、松林をのみ込んで襲いかかってきていた。あわてて車をUターンさせる。そのとき新地駅に列車が止まり、ホームに人がいるのがちらりと見えた。濁流が道路を通路にして迫ってくる。慌ててアクセルを踏み込んだ。

「あの踏切を越えていたら、道が細いからUターンもできず、のみ込まれていたはずです」(武澤さん)

 いつまでも震えが止まらなかった。

◆最後にひと目、わが子の顔を見たい 津波が迫る中、父は保育所へ引き返した◆

 自らの命を犠牲にしても、助けたい命があった。

 仙台市若林区の少女(16)は、祖父母と一緒に車で逃げた。祖父は必死で車を走らせたが、後ろから車高をはるかに超えた大波が迫ってきた。前方に高速道路が見えた。あと少し、そ

のまま走ることができたら、逃げ切れたかもしれない。

 ところが、前方でトラックが横転し、道路に大量の砂利がこぼれていた。行く手を遮られ、少女の車も進めなくなった。津波に追いつかれ、車内に水が入ってきた。首の辺りまで水位が上

がったとき声がした。

「逃げなさい! 早く!」

 少女は運転席の窓から車外に押し出された。背中を押したのは、おそらく祖母だったという。

 少女は水流に運ばれ、車が見えなくなった。しばらくして折れた電柱が見えた。少女はとっさに両腕でしがみつき、あらん限りの声を出して泣き、叫んだ。

「助けてー、助けてー」

 だが誰も気づいてくれない。目をつぶって大声で泣き続けた。

 3時間ぐらいたって、ようやく消防の人間が少女の泣き声に気づいた。

「そのまま泣いてて。いま行くから」

 救い出されたのは意識を失う寸前だった。

「救助があと30分遅れたら、気を失って流されていたはずです」(少女の母)

 祖父母とは会えていない。「おじいちゃん、おばあちゃん。奇跡でもいいから、生きていて」。少女はいまも願っている。

 どんなに助けたくても助けられない命もあった。

 岩手県陸前高田市の小学校の体育館で、団体職員の男性(39)は遠くを見つめるように話し始めた。

 地震発生の直後、男性は6歳と5歳の娘が通う保育園へ車を走らせた。到着したとき、ちょうど妻(37)も職場から駆けつけてきた。

 車で一緒に近所の祖父母のもとへ向かった。男性の母(63)もそこにいた。

「じいちゃんの家に着いたとき、上空に白い煙のようなものが立ち上っていた。いま考えると、津波の水しぶきだったんでしょう。そのうちメキメキとか、バキバキという音がし始めて、ハッと

気づいたら津波がそこまで迫っていた。車に戻る暇がなかったので、近くの高台に避難しようと必死で走りました」(男性)

 妻と2人の娘を先に走らせた。男性は88歳の祖父を抱え、母は83歳の祖母を背負って一緒に走った。

「でもダメだった。水が肩くらいまで来たとき、『もう無理だ』と思っちまってな。じいちゃんの腕を離して、一人で逃げちまった。高台まであと10メートルくらいしかなかったのに......」

 男性の肩にかかっていた祖父の右腕が離れ、「うぎゃあああ」という悲鳴が後ろから聞こえてきた。

 妻と子どもがたどり着いていた高台に男性が上がったときには、母と祖母の姿も見えなくなっていた。

 近くの体育館に遺体が収容され始めたが、男性は今でも確認に行けないでいる。

 宮城県石巻市の女性(46)は津波警報を聞き、母と犬と一緒に自宅の外へ出た。車の鍵を開けようとしたとき、「ギャー」という悲鳴が響いた。向かいに住む老夫婦が津波で流されてい

った。

 流れが緩くなった瞬間に女性と母は自宅の屋根へ上ったが、家がぷかぷか浮いて流され始めた。

「すぐ側を、幼なじみの男性が『助けてくれー』と叫びながら、流されていきました。『頑張って』と声をかける以外、何もできませんでした」(女性)

 3、4時間ぐらいたって水が急に引いた。消防団に救出されたとき、母と2人でへなへなとその場に座り込んでしまった。

「まだ生きている実感が湧きません。今の日本でこんなことが起きるなんて」

◆仙台や盛岡では急ピッチで復旧◆

 陸前高田市で酒造会社に勤める山本幸司さん(34)には、4歳と2歳の子がいる。

 子どもたちが通う保育所は職場よりも海に近いため、津波の到達も早い。それを承知のうえで山本さんは保育所へと車を走らせた。

「津波が来ています」

 警戒放送がスピーカーから聞こえるのも構わずバイパスまでたどり着くと、入り口が封鎖されていた。

「消防署の人から『ここはダメだ。津波が来るから早く逃げろ』と言われたけど、『どうしても行く』と突破しました」(山本さん)

 バイパスに入ると車は一台も走っていなかった。右手の海側から津波が押し寄せてきているのが見えた。

「それを見たとき、『あ、俺死んだな』と思いました。でも死ぬ前にどうしても子どもの顔が見たかった」

 無人のバイパスを思い切り飛ばして保育所に着くと、誰もいなかった。

「もうダメだ」

 そう思って保育所の裏手のやぶを上ると、1分もしないうちに津波が保育所を丸ごとのみ込んだ--。

 呆然としながら高台にたどり着くと、保育所の職員に連れられたわが子の姿が目に飛び込んできた。

「とにかくほっとしました。うれしかったというより、ほっとしました」

    ◇   ◇

 仙台新港では14日11時半ごろ、軽い余震の後、けたたましいサイレンが鳴った。自衛隊員が「津波だ! 上がれ! 走れ!」と叫びながら駆け寄ってきた。あちこちで笛も鳴っている。

辺りは一気に緊迫した状況に包まれた。被災地では地震と津波の恐怖は依然続いている。平穏が戻るのは、まだまだ先のことだ。

 だが、被災地の中核都市ではすでに復旧が急ピッチで進められている。

 仙台市や盛岡市の中心街では、地震翌日の夜には電気や通信が回復した。ガソリンスタンドには車が列をなし、5~6時間待ちが当たり前の状況だが、JR仙台駅周辺では、化粧をし

たオシャレな女性も見かけるようになった。

 それでも日本は必ず復活する--その思いを強く持って、明日に踏み出す。

    *

現地取材班=藤田知也、作田裕史、今西憲之(山形ルート)、村岡正浩(青森ルート)、藤井達哉(福島ルート)/東京取材班=鈴木毅、佐藤秀男、永井貴子、大川恵実、杉村健


週刊朝日