「百人一首」の作者には、冒頭の天智天皇・持統天皇、末尾の後鳥羽院・順徳院を典型として、親子で選ばれた歌人が多く見られます。今回はそうした中で、百首の中で唯一、親・子・孫の三代で選ばれた歌人達の和歌を採り上げてみます。
源経信(みなもとのつねのぶ)・源俊頼(みなもとのとしより)・俊恵(しゅんえ)の三代の和歌を見ていきましょう。

父・源経信の和歌

〈夕されば門田(かどた)の稲葉おとづれて あしのまろ屋に秋風ぞふく〉

「百人一首」に入っている源経信の歌です。出典は、経信の子・俊頼が編纂した第五勅撰集の『金葉集』秋です。それによると、京都の桂川東岸にある梅津という地にある貴族の別荘で歌会があり、その時に「田家秋風」という題で詠まれたとあります。秋の夕暮れに、門前の田では稲穂の葉がなびき音を立て、この芦葺きの小屋には秋風が吹くよ、という内容です。実際にはそんなに粗末なはずのない貴族の舘を、わざと粗末な小屋に見立てて詠み、秋の夕べの風が渡ってゆく音とともに、黄金に靡く田園を演出しています。秋の落ち着きと豊かさが広がりのある美しい情景に感じられる一首で、『金葉集』全体を代表する一首とも見なされた歌です。

歌中の「門田」は万葉語で、古き『万葉集』を見直して摂取するという、この時代の流行をも反映した一首です。しかし、田を渡る秋風は、第一勅撰集の『古今集』でも次のように詠まれています。

〈昨日こそ早苗とりしか いつのまに 稲葉そよぎて秋風の吹く〉

昨日早苗を取って田植えをしたと思ったら、早くも育って稲穂の葉がそよぐ秋風が吹いているよ、という内容です。この歌と経信詠との差は、『古今集』歌が農夫の視線からの季節の推移と収穫への思いが籠められているのに対して、経信詠は、夕日の光に風が加わってきらめく田園の光景の描写そのものに主眼があると読めることでしょう。

『金葉集』には「田・苗代」を詠んだ歌も少なからずあり、農事への関心が薄れたわけではありませんが、こうした田園風景を含めた叙景歌は『後拾遺集』以来の傾向であって、作者の経信は、その時代の実質的な第一の歌人とされていました。

この歌は「百人一首」成立にも影響したかと見られる後鳥羽院が編纂した『時代不同歌合』にも選ばれています。また、後鳥羽院の著『後鳥羽院御口伝』では、「近き世の上手」として経信・俊頼親子の名を挙げて、経信については「殊にたけもあり、うるはしくして、しかも心たくみに見ゆ」と評しています。この評語の意味を言えば、崇高壮大で品格があり(たけ)、端正で(うるはし)、趣向の面白さもある(心たくみ)となるでしょう。
「夕されば…」の歌は、それらを兼備した歌の典型と見なされているのだと思います。
藤原定家は経信のこの歌を本歌取りして次の歌を詠んでいます。

〈いく世とも宿はこたへず門田吹く 稲葉の風の秋のおとづれ〉

下句は経信の歌そのままで、上句で、そうした秋の訪れが幾代続いたか宿は答えないと、その永続性を詠みました。

子・源俊頼の和歌

〈憂かりける人を初瀬の山おろしよ 激しかれとは祈らぬものを〉

次は経信の子・俊頼の歌です。訳を示すと以下のようになります。私に情のない人に、(なお厳しく冷たくするようにと祈ったのではなく、やさしくなるようにと祈ったのに甲斐がありません。あの人と同じように、)泊瀬山から吹き下ろす風よ、厳しく激しく吹けとは祈らなかったのに。

出典は第七勅撰集『千載集』恋二です。『千載集』は藤原俊成の編纂ですが、俊頼は、この集の中で最も多くの和歌が入れられた歌人で、格別に重んじられています。
この歌は、俊成の父・俊忠の邸宅で催された歌会で、「祈不逢恋―祈れども逢はざる恋―」という題で詠まれた歌とされます。
恋を詠む歌の題としては、かなり特殊な状況設定で、歌人としては頭を抱えてしまいそうな題です。この歌で「祈る」とされたのは、大和国の古寺、今の奈良県桜井市にある長谷寺です。『源氏物語』他の平安文学でお馴染みの寺で、滋賀県大津市の石山寺などと並んで、本尊の十一面観音への祈祷に泊まりがけで籠もる“物詣で”という行事が盛んに行われた寺でもあります。
俊頼の歌は、直接的には『古今和歌六帖』という私撰集に見える、恋の逢瀬を長谷寺で祈ったと思われる作者不詳の次の歌がヒントになったかと思われます。

〈祈りつつ頼みぞわたる初瀬川 うれしき瀬にも流れ逢ふやと〉

心に祈りながら期待して初瀬川を渡ります。御利益のある長谷寺を流れる川だから、うれしい逢瀬に会えるかと思って、というものです。
俊頼はこの歌を本にして、与えられた題の「逢はず」という結末になるように換えたのでしょう。
また「初瀬の山おろし」に注目したのは、長谷寺は、泊瀬(はつせ)山、巻向(まきむく)山、三輪山などの山々に囲まれた中にあり、「こもりく(隠国)の」が枕詞です。そうした山の底にあるような寺の位置から、俊頼は「……山おろしよ 激しかれとは……」と詠みました。そのヒントには、『赤染衛門集』にある、赤染衛門が京都の桂川(大井川)の辺にある嵐山の麓の法輪寺というお寺に籠もった時に詠んだ、

〈山おろしの風の声のみ激しくて 井堰(いせき)の水は漏れど守(も)られず〉

という歌が働いたかもしれません。井堰とは川の流れを調節するために堰き止める仕切りで、嵐山からの強い風で川の流れが激しくて、水を堰き止められず漏れ、水の関所である井堰を守れない、という内容です。俊頼の和歌と、山の麓の寺で激しい山おろしにあうという設定が共通します。

俊頼の歌はなかなか複雑で、「憂かりける人を激しかれとは祈らぬものを」と「初瀬の山おろしよ激しかれとは祈らぬものを」という二つの文脈を重ねて凝縮した構造になっています。つまり、冷たい恋人と、山おろしの両方に激しくするなという思いで詠んでいるのです。それを繋げて訳すと、最初に示したような訳になり、激しく吹く山おろしが、ますます冷たくなる相手と、それに悲しみ苦しむ主人公の心を象徴しています。和歌の一語一語を単純に現代語に置き換えても作者の意図を再現することは難しいですが、主張していることは想像も推測もできます。むしろこうした説明的ではない飛躍や含みのある表現が、状況や心情の迫真性を強めて説得力のあるものにしています。

この歌は俊頼の代表作として多くの歌書に引かれていて、先に紹介した『時代不同歌合』でも選ばれています。『後鳥羽院御口伝』では、俊頼について、

〈歌の姿二様に詠めり。うるはしくやさしき様も殊に多く見ゆ。又もみもみと、人はえ詠みおほせぬやうなる姿もあり。〉

とあって、まず、一つ目の歌風が「うるはしく」(端正さ)「やさしき様」(優美さ)で、それは父・経信とも共通します。もう一つの歌風が「もみもみ」(巧緻な風体)であり、単純・素直ではない飛躍や複雑さに奥深さが籠められている面があることを言っています。「憂かりける……」の歌は、まさに「もみもみ」の例として挙げられています。『後鳥羽院御口伝』では、前者(うるはしくやさしき様)の例として、

〈鶉(うづら)鳴く真野の入江の浜風に 尾花なみよる秋の夕暮〉

という俊頼のもう一つの名歌を挙げています。水田などにいる地味な鶉が鳴いている真野の入江の浜風に吹かれて、薄が靡いている秋の夕暮れよ、という内容です。「真野の入江」とは、滋賀県大津市堅田の琵琶湖畔です。この歌が「うるはしき姿なり」とされます。また、この歌には先述した『千載集』の編者・藤原俊成も「これ程の歌たやすくいできがたし」と激賞したと伝えられています。

経信についての評にある「うるはし」が俊頼の歌にも言われていて、その俊頼の「鶉鳴く…」の下句が、秋の夕風に薄が靡く様を詠んでいることは、経信の「夕されば…」の情景に通じ、親子の歌風で似通っている面を確認できます。俊頼が父・経信の和歌世界を学んだ結果なのだろうと思われます。

一方、「憂かりける…」は「もみもみ」と評されたと説明しましたが、この歌が二つの文脈を重ねて凝縮したような詠みぶりになっていることを言っているのでしょう。また、「人はえ詠みおほせぬ」とは、他の人にはとても十分には詠めないという意で、他の追随を許さない俊頼の独壇場だと言っています。これを「定家卿が庶幾する(好む)姿なり」としていますが、定家自身の著『近代秀歌』でも、この歌について、

〈これは、心深く、詞心に任せて、まなぶとも言ひ続け難く、まことに及ぶまじき姿なり〉

と、人が真似できない比類ない達成だと述べています。さらに、この歌を本歌にして、定家は「祈恋」題で、

〈年も経ぬ祈るちぎりは初瀬山 尾上の鐘のよその夕暮(新古今集・恋二)〉

と詠んでいます。年も経ち仲を祈った恋人とは終わった。初瀬山の峰では鐘が私と無縁な夕暮れを告げるよ、というもので、「初」に「果つ」を掛けています。このように「憂かりける…」の「もみもみ」とした詠風は定家にも受け継がれます。まさに、父・経信にはない新しい魅力ある詠風を俊頼が開拓したのだと言えます。

長谷寺(奈良県)本堂
長谷寺(奈良県)本堂

孫・俊恵の和歌

次は俊頼の子であり、経信の孫である俊恵です。

〈夜もすがら物思ふころは明けやらぬ* ねやのひまさへつれなかりけり〉
※明けやらぬは、明けやらで、とするものもありますが意味はかわりません

一晩中、つれない恋人のことを思い続けているころは、恋人だけでなく、いつまでも夜が明けきらない寝室の戸の隙間までが、つれなく思われることです、といった内容です。

俊恵は一般的にはあまりなじみのない歌人かもしれません。東大寺の僧でしたが、京の白河の自房を歌林苑と称して、そこは歌人たちが集まる場となりました。そんな俊恵の弟子の一人が『方丈記』で知られる鴨長明で、その著『無名抄』には俊恵の言説が多く記録されています。
和歌の出典は『千載集』恋二で、恋を題とする題詠です。この歌で「夜もすがら物思ふ」というのは、女が夜に恋人の男の訪れを期待して待ち続け、その間にあれこれ考えて時を過ごしているという状況で、恋の歌としては一般的なパターンです。作者は、その女の心になって詠んでいます。また、この歌は『後拾遺集』冬の、題不知で作者が増基法師の歌を本にして詠まれています。

〈冬の夜にいくたびばかり寝覚めして 物思ふ宿のひま白むらん〉

冬の寒夜に一人寂しく寝覚めがちな思いを詠んでいますが、どれほど寝覚めたら物を思っている宿の片隅が夜明けで白むだろうかと言って、視線の先が「宿のひま」に向かうところが俊恵の歌に似ています。ただ俊恵の歌は「明けやらぬ」とあって、暗い夜が明けないことを強調している点が違います。「ねやのひま」まで白む気配がないというのです。俊恵の和歌一首では、この「つれなかりけり」で終える下句が、「類例もなく、秀抜な表現である」(鈴木日出男)のように注目されています。

俊恵が増基法師の歌に基づいているにしても、恋の歌での「ひま」には格別な意味があるように思います。

〈津の国の芦の八重葺きひまをなみ 恋しき人に逢はぬころかな〉

これは、『古今和歌六帖』の作者不詳の和歌ですが、今の大阪をいう摂津国では芦が繁っていて、その芦を刈って八重に葺いた家の屋根に隙間がないように、隙がないので恋しい人に今は会えないのです、という内容です。つまり、「ひま」とは恋人が収まる場や時でもあるわけです。
俊恵の歌の「ねやのひま」も、訪れた恋人がいるはずの場で、そう意識するからこそ、「つれなけれ」が痛切な寂しさ・悲しさになるのだと思います。「寝室の戸の隙間が、冷たい男の心の象徴のように見えてくる。……」(谷知子)という鑑賞も頷けます。夜を通して恋人を思い、訪れのない辛さに耐えながら寝室の隅を見つめ、そこに幻の恋人を描いて、失望をかみしめるという悲しい恋の歌です。

今回は源経信・源俊頼・俊恵の三首それぞれ奥深い和歌であることを紹介しました。「百人一首」で唯一の親・子・孫まで三代で選ばれたのも不自然ではない気がします。

《参照文献》
後鳥羽院御口伝・近代秀歌 日本古典文学大系 歌論集 能楽論集(岩波書店)
百人一首 鈴木日出男(ちくま文庫)
百人一首(全) 谷 知子(角川ソフィア文庫)